その日訪れたのは、珍しい客だった。
あの生徒より順従なのはうれしい限りだとは思うが、鬱陶しいことに変わりはない。
「ナルセスせんせえええええ」
半泣きで化学室に走りこんで来たウィリアム・ナイツは、ナルセスが苦手とするコーデリアとは別の方向に、面倒な生徒だった。
「僕、どうしたらいいんでしょう。コーディーが、コーディーがあぁぁぁぁぁ」
「とにかく、静かにしろ!」
感情に任せて怒鳴りつけると、ウィルは体を縮こませてしょぼくれた。耳をぺたんと畳んでいる犬が想像できる。愛らしいとは思わないが。
ウィルは、これだからたちが悪い。ため息をついて、仕方なしに話を聞いてやる。
「コーデリアがどうかしたか」
「はいぃ……」
ぽつりぽつりと、語りだすウィル。
「最近そっけないっていうか、前みたいに仲良くしてくれないんですよ。避けられてるんですよ。なぜかはわからないけど……」
「飽きられた、とか」
「うわぁぁぁあん!」
「冗談も通じんのか!」
ピシリと額を叩くと、ウィルは涙目になりながらも我に返ったようで「すみません」と小声でつぶやいた。
「でも、こんなこと初めてなんです、コーディーはなんでも僕に言ってくれるから……」
そんなこと言われても知るか。
というのが本音ではあったが、それを言っては、先ほどより深く落ち込むのがオチだ。ナルセスは使ったこともないような、当たり障りのない言葉を絞り出した。
「それは、お前に悟られたくないことがあるからだろう。例えば……」
「浮気ですか」
弁解する前にウィルが口を挟んだ。その表情を見ると、最早笑いさえあった。
このマイナス思考、どうにかならんのか。半ばイライラしながら、ナルセスは声を荒げた。
「いいか! 言っておくが、コーデリアにお前以上の存在はない。これは誰の目から見ても明確だ。気付いてないのはお前くらいだ、ウィル」
「……そうなんですか?」
「お前が鈍感なんだ。だから、少しはあいつを信じてやれ」
そこまで言うと、ウィルは口を噤んで無言で頷いた。顔色も良くなり、ナルセスは安堵する。わかったなら早く帰れ。
毒づきそうになるのを抑えていると、ウィルは真摯な瞳で「それで」と話を切り出した。
「なんで避けられているんでしょうか」
「…………」
無限ループ。これはもう駄目だ、本当に終わらない。ナルセスが絶望しかけた時、「失礼します」と教室の扉が開いた。
その姿を認めて、ナルセスは内心で高らかにガッツポーズを決めた。
「パトリック、良いところに来た」
プリントの束を抱えたパトリック・ボジオは、不思議そうに眉を寄せた。だが、無言のままに二人に近づく。
「……今日提出のプリントです」
「ああ、適当に置いてくれ。それよりも、ウィルの話を聞いてやってほしい」
声音が昂揚したが、そこまで気を配ってはいられなかった。パトリックは、ウィルともコーデリアとも交流がある。彼を使わない手はない。どうにかしてこの状況から抜け出したい。ナルセスの頭には、今やそれしかなかった。
「……どうしたんですか」
プリントを教卓に置いたパトリックは、ウィルの方へ向く。相変わらず大真面目に、ウィルは初めの台詞を伝えた。
「それは……そうですね」
視線をさまよわせる。それが、黒板に止まったと思うと、パトリックはにこやかに言った。
「明日は14日ですね」
「うん……?」
「まあ、明日には戻るから大丈夫ですよ」
「えぇっ!?」
明らかに何かを知っているパトリックから得られたのは、煮え切らない答えだけだった。ウィルが聞き出そうとしたが、彼は決して口を割らない。諦めて肩を落としたところで、ナルセスが口を開いた。
「……だそうだ。ウィル、いい加減帰ったらどうだ」
「そんなぁ~」
「ウィルさん、あと一晩の辛抱ですよ」
「……わかったよ」
二人に重ねて言われ、ウィルはようやく引き下がった。しぶしぶ教室を出ていく。遠ざかる足音が完全に聞こえなくなってから、ナルセスはパトリックに聞いた。
「バレンタインか」
「ええ、いろいろと考えているみたいですよ」
いささか疲弊した笑顔でそう言うと、パトリックは「部活があるので」と去っていった。
再び静けさが戻った化学室で一人、ナルセスは思考を巡らせた。話に聞くコーデリアの態度、訳知り顔のパトリック、明日のなんだかよくわからないイベント。彼にとって、それらを結びつけることは容易だった。
本当に、鈍感にもほどがある。