幕舎にお戻りください。
 凛とした声音に夏侯覇は首をかしげた。
「それ、俺に言ってる?」
 途端、ぴりりと張りつめていた表情が弛緩する。呆れ半分、怒り半分のため息が姜維の口から漏れた。
「他に誰がいるというのですか」
 言い放ち、姜維は再び憮然とした目を向ける。
 すっかり夜の帷が落ちた山の麓。本来であれば、一軍を取り仕切る将である夏侯覇は幕舎で体を休めている時間である。それがどうしてだか、たった一人で人気のない原っぱに居る。
「供もつけずに、無用心が過ぎます」
「いやいやいや、これでも用心してるんだぜ。ほら、剣もある」
「なるほど、あることに違いはない。物は言いようですね」
「あはは、いやあ、背凭れに丁度良くて」
 夏侯覇は自身の得物を深々と突き刺して、それを背に座っていた。夏侯覇の大剣は身巾が広いから、確かに丁度良いのだろう。なにせ、兜を置いただけの、ほとんど完璧な軍装のままの夏侯覇が体重をかけているのに、剣はまっすぐに立っている。
「だから、あのさ……その喋り方、やめてほしいです」
「このように伝えてほしいと、頼まれたままを言っただけですよ」
 冷ややかまである返答に、とうとう夏侯覇は「頼むから!」と悲鳴を上げた。
 姜維が夏侯覇の元にやってきたのは、彼の麾下に泣きつかれたからだった。
 夏侯覇様は、いつもそうなのです。我々の制止を聞かずに、慣れているから大丈夫だと言って、一人で幕舎を抜けるのです。我々にはどうやってもお止めすることはできません。姜将軍、どうか、夏侯覇様にガツンと言ってやってください!
 複数人に囲まれて、姜維は否とは言えなかった。そうでなくても言わなかっただろう。些細なことでも重なれば信頼は磨り減り、士気の低下に通じる。その危惧もあった。
「こっちに来る時はよくこうやって夜を過ごしてたんだ」
「こっちに?」
 尋ねてから、その言は蜀に降る旅路を指しているのだと気付いた。夏侯覇は最低限の兵糧を小脇に抱えて出奔したと言う。それ以外は着の身着のまま。だから、休息を挟む時などは、こんなふうにしていたのかもしれない。
 姜維は揃えていた足を動かして、やがて夏侯覇の隣へ乱暴に腰を下ろした。
 あれ、連れ戻しに来たんじゃないのか。きょとんとした顔からそんな声が漏れ聞こえる。当然、その気がなくなったわけではない。
「夏侯覇殿は、星見をするのか」
「いや、しない。そういうのは俺の仕事じゃないし、第一、あんまりあてにしてないし。姜維もそうだろ」
「ああ。私も同じだ。星に天命を見出だすことができるのなら、世はとうに平らかであるべきだろう」
「だよなあ。こんな満天を見ても天気のことしかわかんねえ」
「でも私は、落ちる星を見るのは好きではない」
「そりゃまたなんで」
「五丈原を思い出す」
 夏侯覇のいらえが途絶えた。あの頃は、夏侯覇は魏軍に、姜維は蜀軍にいた。対峙していたとはいえ、同じ戦場にいた。五丈原と言ってわからないはずがない。
 姜維はあの時、星が落ちるのを確かに見た。そしてその星は姜維の胸を貫き、あとには星の形の穴が残った。ずっと塞げずにいる、これからも塞ぐすべはないであろう穴。
「仕方ない、戻るかあ」
 驚くほどにあっさりと、夏侯覇は大剣から背を離した。
「なあ姜維、一緒に寝ようぜ」
「お断りします。軍中で寛げはすまい」
「じゃあ、戻ってからだったらいいんだな!」
 そう言って夏侯覇は無邪気な――そう錯覚させる笑みを見せた。いつなんどきも快活な表情を作ってみせるのは、複雑な経歴を持つ彼の処世術の一つである。そして往々にして、それは効果を発揮してきた。現に姜維は思うのである。夏侯覇殿が戻ってからの話をするのなら、無事に戻らねばならない、と。

6年くらい前に書いたやつ 20241203

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