レッスン場の扉を開けた途端、ぴゅうっと冷たい風が頬にぶつかった。反射的に首をすくめる。
「夕方になるとすっかり寒いなあ」
 時刻は午後五時過ぎ。雲のない冬の空はどこまでも広く、曖昧に色づいている。昼間に駅からレッスン場まで歩いた時は、ぽかぽかとした陽気でじんわりと汗をかくくらいだったのに、日が暮れるとこの寒さだ。
 でも、冬の張り詰めた空気は好きだ。師走という言葉通り、スクランブル交差点を行き交う人も皆忙しそうに見える。
「この時期ってさ、なんかそわそわするんだよな」
「そわそわ?」
「もうすぐクリスマスで、冬休みも始まるし。仕事とレッスンの他になにがあるってわけじゃないけどさ。そしたらすぐ年越しでお正月だろ」
「……よくわからないが、イベントごとが多いということはわかった」
「あ、そわそわするのはそういうことかも」
 クロムが東京で冬を過ごすのは初めてだから、わからないことだらけなのは当然だ。街中にイルミネーションが飾られるようになった時も「なぜ木が光っているんだ」と尋ねられた。風物詩だと答えたけど、言われてみれば理由がわからない。二人して首を捻って、冬、イルミネーション、理由、と検索をしたのは記憶に新しい。クロムと一緒にいると、今まで気にもしていなかったことに意識が向くようになる。この業界にいるからにはいろんなことにアンテナを向けなさい、と事務所に入った頃に助言を受けた。それもあって、クロムがクロム自身の目で見て感じたことを話してくれるのは嬉しい。もちろん、単純に――理由なんてなく、クロムとの時間は楽しい。
「遊んだりおいしいものを食べたり、そういう予定が続くからずーっとお祭り気分っていうか」
 とは言っても、そんな冬本番はもう少し先だ。
「それは、試験も入っているのか?」
 投げかけたクロムの声に、含み笑いの気配。イルミネーションの理由を尋ねた時の純粋な疑問とは違う。わかってるくせに!
「試験をお祭り扱いする高校生は絶滅危惧種だよ」
「だろうな」
 ほらやっぱり。クロムは笑いを噛み殺してるけど、隠そうとはしていない。さすがに半年以上一緒に過ごしていれば、定期試験が高校生にとってどんなものかくらいクロムも理解している。憂鬱とまでは言わないけれど、浮ついた気分はもう少しの間抑えなくては。学生の身分としては、クリスマスも正月も、先に試験をやっつけなければやってこないんだから。
「イツキなら大丈夫だろう」
「うーん。さすがに赤点は回避できると思うけど、最近仕事が忙しかったからな」
「だが、スケジュールを調整してもらったんだろう?」
「うん。勉強時間確保のためにって、ツバサ達もそう言ってた」
「それなら皆で一緒に勉強をするのはどうだ」
「いいかも。みんなに聞いてみようかな」
 とりとめのない言葉を交わしながら冷たい風の中を歩いた。駅から家まで、いつも通る道。なんの変哲もない。驚きもない。いつもの場所。
 そこにクロムがいる。
 出会ったのは新緑の頃だった。じめじめした梅雨の時期はまだクロムとの距離が掴めなくて、声をかけられるたびにほんの少し緊張した。うだるような暑さの中レッスンに向かう時は、今日も頑張れっていつも応援してくれるのが照れくさかった。日差しが和らいできた頃には仕事の話をして、感想を言ってもらうのが当たり前になっていた。それから急に寒くなって、もう雪が舞い始める時期だ。きっと、暖かくなる時も急なんだろう。
 あっという間に季節が巡る。それは惜しくて、けれど次の季節が待ち遠しい。

20241208

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