静寂というのは何もなくたってどこか緊張感が伴うものだけど、今日の執務室は特段、空気が張り詰めていた。紙を捲る音、ペンを走らせる音、身じろぎで布が擦れる音、そんなものでさえ妙に耳につく。理由は明確だ。書記官から受け取った報告書に目を通した父チャールズが、深いため息を一つついて、それからぴたりと動きを止めて考え込んでしまったから。こっそり盗み見た顔は、眉間に彫刻のような皺が刻まれていた。書類の中身はわからないけれど、おおよそ想像がつく。南大陸の諸侯からの提言か、中原で散発する反乱か、グラン・タイユの向こうの動向か。頭が痛くなる報告が途切れないのだ。なにせ、祖父が亡くなってからヤーデの風向きは悪くなる一方だ。メルシュマン地方に労力を割く必要がないことだけは幸運だと思う。けれど、父曰くの「内乱なぞにかまけている輩」に手を出すことさえ難しいこの状況は、機を失しているとも言える。それで、一層父の苛立ちは募っていく。
 とはいえ、父が沈黙を貫く以上、誰もが沈黙を選んだ。思考の妨げになるという考えでもあるし、今ここにいるのは皆下級官吏だからでもある。ヤーデ伯たる父にこの状況で声をかけることができる肝が太い人物はいない。もっとも、父はそういうことを気にする人ではないのだけど。
 思考の傍で進めていた文書を書き終えてペンを置いた。これもまた、父の頭痛の種になる書類である。提出のついでに一言お声をかければ、冷や汗をかいている官吏たちの顔色もいくらかましになる。きっと、「お前が口を挟むことではない」とすげない返事を寄越されるのだろうけど。一息ついてから席を立とうとした時だった。
「デーヴィド」
「はい」
 返事は反射だった。私をそう呼ぶ人は、今のヤーデには一人しかいない。ぱっと顔を向けると、父は手元の報告書を睨みつけたままだった。私のことを見て呼びつけたわけではないように見える。タイミングが噛み合っただけだろうか。
「それを持ってこちらへ」
「はい」
 まさしく今お持ちしようとした書類を手に、今度こそ席を立った。机を挟んで父の前まで行くと真横を指差された。向かいではなく、父の左隣。渋面のままで目が合わないから、真意は計りようもない。指し示された通りに回り込んだところで、今度は手招きされる。寄れ、ということは、なにか声を潜めて指示をしたいのだろうか。けれど、この静寂の中ではいくら近づいても、聞き耳を立てられてしまうのに。疑問はさておき、大きく一歩踏み出す。肘掛けのない椅子だから、少し身を寄せれば肩に触れてしまうくらいの至近距離だ。
 そこまで来て、ようやく父が顔を上げた。よくよく見ると据わった目をしている。酷くお疲れなのは明らかだ。この様子では、普段関わりの少ない文官はもちろんのこと、直属の将兵すら狼狽えてしまいそうだ。どうにか時間を作ってお休みいただかなければ……。
 なんと説得しようか。頭の隅で考え始めた言葉は、体を大きく揺さぶられた瞬間に吹き飛んだ。
「え」
 有無を言わせない力で腰を引き寄せられ、次に足が不自然に掬われる。術の行使。中枢の、こんな場所で一体何事だ。警戒に身を竦ませて、だからかもしれない。されるがまま腰を落ち着けたのは、椅子に座ったままの父の片膝の上だった。自覚した途端、違う意味で体が固まった。
「あ、の、父上?」
 呼びかけた父はもう書類を見ていて、また目が合わない。横顔から窺える表情に変化はなく、やはり眉間をきつく寄せている。顔面に熱が集まっている私とはきっと正反対の、なんでもないような様子で。
 そういえば、幼い頃、書き物に暮れる父の執務室へ飛び込んだことがある。戦場に出てばかりで、そばに居られる時間は今よりもっと限られていた。それが当然だったから寂しく思った記憶はあまりないけど、その時はどうしてだか、仕事中だとわかっていながら部屋に行った。父上のお手伝いをします、と言って。ようやく読み書きを習い始めた頃だったと思う。幼子の困った我儘に、父がなんと返事をしたのかは覚えていない。ただ、父は私を抱き上げて、膝に乗せて、そのまま書き物をした。紙にインクが綴られるさまを、机に顎を乗せて見ていた記憶が確かに刻まれている。
 あれから十数年経っている。私はとうに成人を迎えて、もう、膝の上で抱えられるような歳ではないはずなのだけど。……そのはず、だよな?
「デーヴィド、こいつに目を通せ」
「は、はい」
 なんでもない態度のまま、手にしていた報告書が差し出された。状況は不可解なことこの上ないけど、言われたことをするのが先だ。ぐちゃぐちゃに乱れた思考を無理やり端に追いやって紙面に目を移す。表題は、樹海より西のロードレスランドにおける反乱分子について。私が作成した文書、もとい数字に関係する内容である。もしかしたら、父は私が書類を書き上げるのを待っていたのかもしれない。
「読んだらまとめた書類を読み上げろ」
 続けて指示が下される。このままですか、とは聞けなかった。というより、聞く余地がない。なぜなら、最初に引き寄せられた時からずっと、腰に腕を回されている。抱き寄せると言うには緩く、添えると言うにはしっかりと。そうされている私にとっては、拘束されていると表現するのが一番しっくりくる、そんな力の具合だ。ここで腰を浮かせようものなら……父がどうするのか、見当もつかなかった。ただなんとなく、意に反する気はする。それは憚られて、結局身動きを取るのは諦めた。ちらちらと刺さる視線は気になるけれど、そちらも無視するしかない。
「では、本年に入ってから蜂起した数を報告します。まずは全域から」
 作り上げた報告書を無心で読み上げる。今私がすべきことは、求めに対して忠実に応えることだ。それが、四方を囲まれたヤーデを立て直すことで、疲労を滲ませる父の助けに繋がることである。手伝いをすると言った幼い時分の思いは、今に至るまで続いている。
 単純なデータの読み上げは、やがて数字の意味の分析に。意味の分析は、事象の考察に。事象の考察は、反乱の対策の検討に。一対一の議論は粛々と進む。
「樹海を根城にする手合は土着の民の要請に参じる形を取る。シュヴァルツメドヘンはどうする。あの街には軍を入れられん」
「条件は同じです。違うのは、ギュスターヴ公の伝説が色濃く残っていることでしょう。それを利用します」
「抑え込むあてがあるのだな」
「はい。ですがあくまで対応策です。殲滅は難しいかと」
「今はそれで構わん。明日の午後までにまとめろ」
 一区切りついたところで、回されていた腕がするりと抜けた。今になってどきりと心臓が鳴る。途中から、議論で頭がいっぱいになっていた。端に追いやったはずの乱れた思考はいつの間にか消えている。再びひしゃげる前に、そっと膝から降りて向き直り「承知しました」と返事をした。私にはやらなければならないことがまだたくさんある。余計なことを考えている暇はない。
 それでも、一つだけ尋ねたいことがある。
「あの、父上」
「なんだ」
「重くはありませんでしたか」
 問いかけは、自分が思っていたよりもずっと、おずおずとした声音になった。報告と議論は決して短くない時間だった。幼児を膝に乗せるのとはわけが違う。けれど父は、考える素振りも見せず「いや」と即答した。本当だろうか、と顔をまじまじと見つめる。その時初めて、深く刻まれていた眉間の皺が消えていることに気がついた。
「むしろ、存外薄かった。そんな体では軍を率いるのは夢のまた夢だぞ」
 目を細めた父に思いもよらないことを言い捨てられ、奥歯をぐっと噛んだ。
「精進、いたします」
 戦略の立案はできても、それを実行する立場は与えられない。そんなことでは未だ疲労の影がある父の負担を減らすことなどできようもない。本当に、私には足りないものが多い。順序立てて、一つ一つこなしていくしかないのだ。
 今は、明日のために資料の作成を。一礼して執務室を辞した。それから、緊張の糸が緩んだところで父が一服できるものを。杏の香りづけをした紅茶をお持ちするよう従者に手配した。

むかしフォロワーさんが、父上の膝にちょこんと座る息子を描いてたな…というのを思い出しながら書いた。10代の成長途中の青少年の体つきを薄いと表現するのが好きです。チャールズはただ単に疲れてただけです。
250607

» もどる