少し休むと言って執務室の奥に消えたチャールズが、三十分経っても戻ってこなかった。
書記官に一言声をかけ、デーヴィドは様子を見に行く。チャールズは仮眠室にあまり人を入れたがらなかったが、デーヴィドは何度も立ち入っていたし、自身も使ったことがあったので躊躇うことはなかった。
部屋の明かりはついたままだった。チャールズはベッドではなくカウチに横たわっている。静かに近づいて、横で膝をついた。
瞼は降りたまま、まだ、眠っている。普段の険しい表情はない。珍しいこともあるものだなあと覗きこんで、我に返る。見つめている場合ではない。
「チャールズ様、お時間です」
声をかけるが反応はない。肩をそっと揺らしても目は閉ざされたまま。どうしよう、と困ったのと同時に、デーヴィドの胸の奥に疼きが芽生える。逡巡したのは一瞬だった。
「起きてくださらないのですか、父上」
もう一度声をかけて、返事がないことを確認する。
「……僕は少し、物足りません」
ぽつりと呟き、カウチに投げ出された手に触れる。得物を振るう硬い指先だ。己の指と絡めると違いが浮き彫りになる。デーヴィドは戦場に立つことを許されていない。武官ではなく、文官としての役割を課されていた。こうして同じ場所にいることが珍しい。だから、ここのところはずっと、触れられないでいた。
手を重ねるだけでは満たされない。どうしようもない渇望が残る。それでも、小さな幸福感が疼きに蓋をした。こんな些細なことだけでも頬が緩む。
手をそっと離した。頭を冷やして、もう少し経ったら今度こそ起こせばいい。部屋に入った時と同じように静かに辞そう。そう決めてデーヴィドは立ち上がった時だった。ゆるゆるとチャールズが目を開ける。ぎくりとして反応が遅れ、しかしすぐさま常の調子で声を発した。
「お目覚めですか、チャールズ様」
「ああ……少し、過ぎたな」
「申し訳ありません。深く眠っていらしたので、無理に起こさない方が良いかと……もう少しお休みになっては」
「いや、いい」
「左様ですか。では私は先に戻ります」
立ち上がり身なりを整えるチャールズに一礼をして背を向ける。長居するとなにかぼろが出そうだった。ひそかに息を吐いて、早足で向かった扉の把手に手をかける。
「デーヴィド」開きかけた扉が、背後から伸びてきた腕に押し戻される。「物足りないのはもういいのか」
デーヴィドの心臓が跳ねた。一呼吸の間に顔が熱くなる。これでは、なんのことでしょう、としらばっくれることなどできようがない。そうでもなくとも、真後ろに立っているチャールズに誤魔化しができるデーヴィドではなかった。
「気付いて、いたのですか」
「肩に触れられた時に」
つまり、ほとんど最初からだ。独り言まで聞かれたじゃないか。把手から手を下ろす。冷え切った指をきつく握りしめた。
「質問に答えろ。もう、いいのか」
耳元で詰問される。顔が見えないのは幸いだった。真正面から見つめられていたらまともに答えられる気がしない。こちらを向けとチャールズが命じないのを気遣いだとは思わないが、理由まではわからない。なんにせよ、デーヴィドには逃れる選択肢はない。詰まる喉を押し開いて包み隠さず告げるしかなかった。
「よく、ありません。物足りないのです。ずっと、ずっと寂しい……父上に触れられなくて」
重罪を懺悔するような心地だった。つまらない悪戯心にかられて、こんな、みっともない劣情を晒して。ああ、早く一蹴して置き去りにしてくださらないか。
俯いて羞恥に震えるデーヴィドは、自身の背後でチャールズがどんな表情をしているかなど知る由もなかった。
「では少し構ってやろう」
そう言うが早いか、チャールズはデーヴィドの腕を強く掴んで踵を返した。驚きの声を上げることしかできないまま、デーヴィドは部屋の中ほどに引き摺られる。抵抗する間もなく、先程までチャールズが横たわっていたカウチに押し込められ、そこで思惑に気付いた。
「待ってください、いけません」
「たまの我儘を聞いてやると言っているんだ」
「でも、私は」
「大人しく甘えていろ」
首を鷲掴みにするように撫ぜられ、息を飲んだ。カウチに乗り上げたチャールズに見下されて、直視できずデーヴィドは顔を背けた。力任せに押し退けて、抵抗することもできる。そうしないのは、全身が歓びに打ち震えているからだった。首筋を伝う甘い痺れはひどく抗いがたい。期待と興奮で息が上がる。胸がはち切れそうだった。ずっとこうしてほしかった。だがまだ足りない。もっと欲しい。もっと、暴いて、求めてほしい。全てを明け渡してしまってもいいから。
けれど、デーヴィドはぎゅっと唇を引き結んだ。縋りそうになるのを堪える。代わりに、胸元に触れている骨張った手を、押し止めるように掴んだ。
「どうか、おやめください」
静止の声に確固たる意志が乗っているのにチャールズは気付いた。すう、と目を細める。
「なにが気に入らんのだ」
「今、チャールズ様のお時間を頂くわけには、いきません」
元より、執務中の小休憩に席を外しただけだった。隣室には書記官も控えている。休息の延長の戯れであったとしても、我儘を聞いてやるというのが本心からだとしても、それを享受するわけにはいかなかった。弁えよ、とデーヴィドは自身を律する。
「今は、だめです」
そう。だから今は駄目だ。つまらないことに時間を割かせてはいけない。
それなら、今じゃなかったら?
ふっと吐息が漏れる音を聞いた。見ると、チャールズの唇が弧を描いている。恐る恐る視線を上げると、同じ色の瞳とかち合った。光のない、底が見えない目で見ている。
首から掌が離れていく。胸の奥の疼きが一層増した。
「夜、時間を空けておく」カウチから降りたチャールズが、冷ややかにデーヴィドを見下ろす。「お前にその気があれば部屋に来い」
どくん、と一際大きく鼓動が鳴った。
見て見ぬふりをしていたものを一度でも強く意識してしまったら、もう前には戻れない。それがこじ開けられたものなら、なおさらだ。熱に浮かされた身体を収める方法を、デーヴィドは一つしか知らない。
「きっと……きっと、伺います」
たどたどしく震えた声で、確かに伝えた。チャールズは反応を示さない。言葉だけではなんの証明にもならない。今夜、宣言通りに部屋を訪れるまでは。
「デーヴィド、お前は頭を冷やしてから戻れ」
「いえ、私もすぐに」
衣装を整えてチャールズの後に続こうとする。しかし、硬い靴音を鳴らして振り返ったチャールズが、デーヴィドの顎を掴んだ。ぐいと上を向けさせられる。硬直したデーヴィドは瞬きを繰り返すしかない。しばし見つめ、そしてぱっと手を離したチャールズははっきりと言い放った。
「人前に立てる顔ではない」
それは侮蔑の入り交じった声音だった。背筋が粟立つ。だがデーヴィドは、それが畏れやおののきではないことを知っている。えもいわれぬ、快感の燻りだ。
一人部屋に取り残されたデーヴィドは、長い息をついた。窓から覗く日はまだ高い。定刻に終業を迎えたとして、食事を取って、湯浴みを済ませて、それまで、あと何時間あるだろう。
深呼吸を繰り返し、襟を正したデーヴィドは悠々たる足取りで部屋を後にした。