これを書いた十日の後に訪問する。ずいぶん急なことが書かれた手紙が届いたのは、ネーベルスタンがワイドでの職を辞し、自治領の邸宅に戻ってから二月後のことだった。差出人を見た瞬間から内容の予想はついていたし、相手方に遠慮というものがないことは十分にわかっていたから腹を立ててもいない。ただ、相変わらず勝手なやつだと、一つだけ息を吐いた。十年の付き合いがある。顔を合わせた回数だけなら知れているが、表面的な性質は最初の一日で理解した。良く言えばあけすけ、悪く言えば不躾、ついでに偏屈。手紙を寄越したナルセスはそういう男だった。ただし、本質的なところは未だ測りかねていて、なぜ今、と疑問に思ったのだった。
ともかく、執事にはこれこれこういう男が訪ねてくるから部屋に通すようにと伝えた。その指示が末端の者まで行き届いている。
手紙に記されていた日付からぴったり十日後、ネーベルスタンは執務室で来客の報を受けた。こういうところはきっちりしている。大した仕事を入れていなかったネーベルスタンはすぐに机上を片付け、応接間へ足を向けることにした。ところが、廊下に出て数歩歩いたところで、背後から「あの」と慌てた調子の声が上がった。振り向くと、報告に来ていた女中が眉を垂らしたなんとも締りのない面持ちで直立している。
「離れへご案内いたしました」
離れ。その単語を理解した途端、ネーベルスタンの体温が急上昇した。瞠目し、しばし絶句。三つ数えてから「そうか」と返事をし、踵を返した。
歩調がいつになく荒いのを自覚する。付き従う女中の足音が小走りになったことに気づいても、速度を緩める気にはなれなかった。
離れ、離れだと?
使用人らが萎縮するかもしれない。だが、はあ? と声を上げなかっただけましだとネーベルスタンは思っている。それくらいに、ネーベルスタンにとっては雷に打たれたに等しい。
広い邸宅の一番隅にその部屋はある。南側に大きなガラス窓を備え、室内にはテーブルセットを揃えている。応接間として過不足ない設えを施した部屋を、この家の者は離れと呼んでいる。
離れといっても建物が独立しているわけではない。外観では何の変哲もない、屋敷の一部分だ。けれど、どうやったって屋敷の中から部屋に辿り着くことはできない。廊下が繋がっていないからだ。部屋の出入り口はただ一つ、裏庭からの扉だけだ。つまり外からしか入れない。
奇妙な間取りにはもちろん理由がある。来客が重なって、どうしても客人同士がはち合わせないようにしなければいけない、なんて時に使われることもあるが、そんなケースは稀も稀だ。主な用途は人目を憚っての密談である。政治的、もしくは軍事的な理由で面会した事実を秘する場合に使う。だが、当然ナルセスは密談相手などではない。であれば、なぜ離れに案内されたのか。
疑問に思うまでもなかった。あの部屋には、同じく扉が一つしかない部屋が隣接している。決して室内を窺い知ることができないよう、常に分厚いカーテンが引かれている部屋が。
裏庭を突っ切って離れに直行する。目的の部屋の扉の横に控えていた従僕がちらりと視線を寄越したのを黙殺した。これといった指示を出すつもりはない――今のところは。
息を整えてから部屋に入ると、端座するナルセスの姿があった。差し出されたカップに口をつけたところだったようで、ネーベルスタンの存在に気づきはしたものの、ちらりと横目で見ただけで紅茶を呷るのを止めはしなかった。本当に、相変わらずの態度だ。控えている女中がじろじろと目線をやるのを気にも止めていない。その態度にすっかり慣れているネーベルスタンは意に介さず、空いている椅子に座る。丸テーブルを挟んで向かい合う形になったところで、ナルセスがカップをソーサーに戻した。最後に顔を合わせてから二年ほど経つ。手紙のやり取りでさえ稀だが、考えるまでもなく言葉が出てきた。
「久しいな、ナルセス。変わりないか」
「ああ……私自身は。仲間内ではいろいろとあったが、この通りだ」
「そうか」
「そちらは大事になったな。だが息災でなによりだ」
ナルセスにしてはやけに物柔らかな口振りで呆気にとられる。目をしばたたかせたナルセスはふっと半眼になって、腕を組んだ。ああ、機嫌を損ねてしまった。
「危うくワイドに便りを出すところだった」
「冗談にしては笑えん」
深い溜め息をつく。ナルセスがどこまでネーベルスタンの事情を把握しているかは定かではなかったが、今の一言で大体を察することができた。東大陸で活動していたはずなのに詳しいものだ。
ワイドにネーベルスタン宛の手紙なぞ届くものなら、あなた宛の手紙を渡しに来た、と体の良い、且つ真っ当な口実を得てギュスターヴが訪問するのは目に見えている。それだけでも頭が痛いのに、さらにそこから親近を探られる可能性を考えると笑えない。なにもやましい事はないけれど、なんでも火種にされそうだ、とネーベルスタンは思う。なにせ、ワイドの件がそうだったのだから。火のないところに煙は立たないとは言うが、あの男は地中深くで燻っていた煙を大火事にまでしてみせた。
辟易しているネーベルスタンをおもしろがって、ナルセスは「では大真面目に手紙を書こうか」と目をすがめた。
「政変があったのは向こうでも風の噂程度に聞いていたがな。シャルンホルストに着いてから詳しく聞いて驚いた。まさか追い出されているとは」
「追い出されてなどいない。私から辞したんだ」
「むきになるなよ、街ではお前の悪い噂は聞いていないんだから」
市井に流れる噂がなんであれ、ネーベルスタンにとっては無血開城を許したことそのものが恥であった。
「そんな話をしにきたわけじゃないだろう」
半ば無理矢理話を切り上げると、ナルセスは「当たり前だ」とあっさり引き下がった。そして「紹介状が欲しい」と当然のように言い放った。
「もう在庫がない」
「お前……あれを便利な紙切れだとでも思っているんじゃないだろうな」
「まさか。価値がわかっているからこうしてわざわざ足を運んでやっている」
なんでお前が上から目線なんだよ。そう文句をつけたくなって、しかし今更すぎるなと思う。ナルセスはいつもこうだ。せめてもの抗議の目線だけを向け、ネーベルスタンは部屋の隅に佇む使用人に目線をやって合図をした。目礼を返した使用人は静かに部屋を出て行く。書簡を取りに行ったのだ。訪問の報を受けた時から、どうせこんなことだろうと思っていた。
テーブルに用意された書簡に日付とサインを入れ、ナルセスに手渡す。文面を確認したナルセスが「確かに」と頷き、再度手元に戻ってきたものに封蝋を押した。
「自分で言うのもなんだが、将を辞した以上、どれほど効力があるかわからんぞ」
「馬鹿正直に見せるだけではな」
ナルセスが目を細め、書簡をすいと振ってみせた。
「見事な手腕でワイドを獲ったギュスターヴ公だが、それでも手中に収められないものがある。いくら報奨を積んでも、いくら言葉巧みに口説いても、頑として首を縦に振らない。そんな男から私は信頼を得ているのです――と」
よく回る舌だ。全くの嘘でもなければ過度な誇張とも言い難い、その具合が絶妙だ。素直に感嘆の念を抱く。
だが、その評もいつまで通用するかはわからない。
「あちらもじきに飽きて、放っておかれるさ」
雷光にも等しい制圧劇からまだ二月の頃合いである。他にこれといった事件もない、いたって平和な南大陸で注目を集めるのは当然だった。ワイド侯の座についたギュスターヴがナ国へ赴いたのはつい最近のことだ。忠誠を誓ったとはいえ、それが真か、名目か、諸侯は慎重に見極めようとしている。そんな、文字通り台風の目のような男から、出仕の催促を受けていた。元の官位をあなたのために空けてある、などと随分丁寧な文句を添えて。そして、ネーベルスタンはそれを既に断っている。
「お前、このまま断り続ける気か。あの街はどうなる」
「居ないなら居ないなりに組織は回っていくものだ。市街の維持程度なら十分だ」
「市街の維持程度なら、か」
ナルセスが含みを持たせて言葉を繰り返す。ネーベルスタンとしては、そこに意図を持たせたつもりはなかった。けれど、言われてみれば思うところがある。無意識が口をついて出たのかもしれない。私が居なければ、そこまでしかできない。
しかしそれは傲慢だ。
将を辞した際、麾下が幾人かついてきたが、ワイド軍の大勢には影響を及ぼさない程度だ。ネーベルスタンとしては案外多くこちらに残ったなと思ったくらいだった。その手勢は、ワイドを離れる覚悟をしかと問うてから自衛軍に加えた。
あとの将兵は多少の再編をして今もワイドで変わらずやっているだろう。ヤーデ軍と混成しているという話も聞いている。その後目立つ情報が入ってこないのを鑑みるに、混乱も起きていないと考えている。そこに自身が加わることを望まれる理由がネーベルスタンにはわからない。
「だいたい意図はなんだ。ヤーデの後ろ盾があるなら私はいない方がいい」
「後ろ盾ではなく、自軍の増強を考えているんじゃないか」
「そのために私を招くのは得るものと失うものが吊り合わない。ヤーデ伯が良い顔をしないだろう」
「それは知らん。そもそも、その新しいワイド侯は本当にヤーデの協力を求めているのか」
「本当にって、ワイドとヤーデが結託すれば一大勢力だぞ」
「何者かの庇護下では成せないこともある」
成せないこと。それを聞いた瞬間に、ネーベルスタンの脳裏にいくつかの可能性が駆け巡った。だが、頭を振って思考をやめる。空想に空想を重ねすぎている。今それを考えるのは無駄な気がした。
「なんにせよ、ヤーデの手が入っている以上、私が介入するとややこしくなる」
元々、ワイドとヤーデはナ国連邦下の立場において反目していた。代々高官を輩出し、ナ国の忠臣とも言えるヤーデと、方や周辺の小領主に影響力を持つ領邦のワイドである。今回の件は連邦内の政治戦争の面でも負けたに等しい。今のところはワイドがナ国から一歩引いた位置にあるのは変わらないようだが、やがてナ国に取り込まれるのは必然だとネーベルスタンは考えている。そんな状況で、自分の存在が――ワイドを半独立状態たらしめていた軍の統括者があれば、邪魔以外の何者でもないだろう。適当な理由をつけられて失脚する可能性さえある。それはあまりにも屈辱的だ。
だが、それだけではない。ワイド候の前で軽妙な話術を見せてたギュスターヴを思い出す。大仰な語り口で、人好きのする相貌で、するりと懐に入り込んだのを警戒した。何事かを企んでいるのではないか。そう危惧して覗き込んでやろうとしても、青碧の瞳の底はちっとも見えなかった。ギュスターヴが見せなかったのだ。
将としての器はおろか、剣の腕すら知らぬ男である。ネーベルスタンが知っているのは、したたかであること、行動力に長けること、大きな後ろ盾があること、その程度でしかない。かつては帝王学を仕込まれていただろうが、実際のところ務まるかなどわかりようもない。それでも、あの肝の座った青年はやっていくだろう。
「あの男が率いるなら、そう回っていく」
きっと、そこに自分は必要じゃない。
言ってから、自虐的になりすぎたのを自省した。少なくとも、ナルセスにする話ではなかった。
「つまらない話をしたな」
沈黙が落ちる。
「一つ、聞きたいことがある」
と、ナルセスがわずかに声を低くする。纏う気配が変わったのを感じてネーベルスタンは片手を振った。それに呼応して使用人らが一斉に退出する。扉が閉まったところでナルセスは再び口を開いた。
「隣室に寝台の準備が整えられていたが」
全くの想定外だった。軽い口調で切り出された話題に、ぐ、と喉の奥が詰まる。こいつ、いつの間に。ドッドッと走り始めた鼓動をなだめすかして、あくまで平静に――そう装っているとナルセスに見透かされているのはわかりきったうえで、当たり障りない回答を用意する。
「ああ、仮眠室だからな。如何なる時も整えておくものだろう」
「ほう、仮眠室にああも芳醇な香を焚いておくのか」
駄目だ。言い逃れできない。片手で顔を覆いガックリと頭を垂れる。
離れに案内した、と聞いて頭に血が上ったのはこれが理由だった。当のナルセスは気を悪くするどころか、喉の奥を鳴らして心底楽しそうにしているが。破顔した相貌にまるでよこしまなふうがないのが貴重なまでだ。
「……まったく、いらん気を回された。というか勝手に部屋を覗くな」
「覗いてはいない。部屋の構造から想像がついただけだ。監視がいるのに勝手ができるわけないだろう」
そういえば、いつかに彼の生まれが使用人の家だと聞いた。仕えていたのがどの位の家かは知らないが、だから見なくとも想像がついたのだろう。それで、かまをかけられ、見事に引っかかったわけだ。
「良い使用人だな。主をよく理解している」
「……お前は、嫌じゃないのか」
なにが、とは言わなかった。言わずともわかるだろう。ナルセスはこの家の者から、ネーベルスタンの男妾扱いされているということだ。ああ確かに、はたから見たらそう思われるのはなんら不思議なことじゃない。
実際、ネーベルスタン自身、自分にとってナルセスは何なのかと問われると、答えに窮する。男妾ではないと断言できる。かといって恋仲なんて柄でもない。知人というには深すぎる縁を結んでいる。関係性の否定はいくらでもできるが、肯定ができない。
ネーベルスタンはこの誤解を仕方ないと諦めることができる。けれどナルセスのプライドは許さないだろうに。案の定、ナルセスは鼻を鳴らして「おもしろくはない」と両断した。
「だが、お前のその焦燥っぷりが対価ならつり合う」
「それは、ずいぶん安いな」
「そうでもない。この頃はすっかりおとなしくなってしまったからな。お前はそうしている方がおもしろい」
目を細め、唇で弧を描く表情は演技ではない。仏頂面を見せられるよりはよほど良いが、こうも上機嫌なのは本当に珍しい。気を緩めたようにナルセスが頬杖をついてネーベルスタンを見つめた。
「つまらん顔が少しはましになった」
そう言われて、ネーベルスタンは初めて、自分が焦心に駆られていたことに気がついた。
見て見ぬふりをしていただけで、本当はずっと苛立っている。城門に見慣れぬ軍旗がたなびいているのを見上げたあの時から、ずっとだ。隠居した父に代わって執務をこなしている時も、麾下に調練をつけている時も。腹の奥にむかむかとした心地が煮凝りのように残っている。
ああ、あの王子は元のワイド候よりも利口だろう。君主として仰ぐに値するかもしれない。だからといって、陥れた張本人だ。おいそれと膝をつくことができようか。
とはいえ、ワイドには指揮を執っていた軍があって、人がいる。元々は数日出仕を控える程度のつもりだったから、仕事をほとんど放り出してきてしまった。自ら選んだ補佐役が優秀であることは知っているが、いらぬ苦労をかけているだろう。
それでも、自身が口にした通り、居なければ居ないなりに組織は回っていくものである。既に二度ギュスターヴから遣いが寄越されたが、私の力なぞ必要なものか、と思う気持ちもある。
いくつもの感情が湧き出ては、沈下し、混濁し、黒く溜まっていく。重く纏わりつくものを払い除けることができずにいる。そうしていると徐々に疑心に囚われていく。私は今、掃き溜めの中で足踏みをしている、と。
「私は、腹を立てていたんだな」
発した声は獣の唸りのようだった。瞋恚の渦の中で、そんな自分が嫌で仕方なかった。
張りつめた空気の中で、ナルセスが長く息をついた。
「小難しいことを気にしすぎなんだ、お前は」
嘲りを含んだ口振りに、自身を苛んでいた苛立ちのいくらかがナルセスへ向けられる。他者の、国の思惑が複雑に絡み合って現状が形作られているのは事実だ。それを小難しいの一言で両断することができようか。反論しようと口を開いたネーベルスタンだったが、それよりも先にナルセスが、心を読んだかのように言い募る。
「気にせざるを得ないなら、立ち止まって冷静に考えるだけの話だろう」
「だが、そうしている間にも事態は変わっていく」
「ならば思いつくままに行動するか」
「そんなこと、動いたところで失敗するだけだ」
「止まりもせず、動きもせず、言ってることがめちゃくちゃだ。議論にならん」
全くもって正論を突きつけられて、ネーベルスタンは息を飲み込むことしかできなかった。醜態ばかり晒している。
「ネーベルスタン、お前が考え続ける限り、それは必要な時間だよ」
ナルセスはただ静かに言い切った。優しさだとか思いやりだとか、そんな気配は欠片もない。そしてふと、挑戦的な笑みをネーベルスタンに見せた。そのまなざしは見極めようとするものだった。慰めも、労りもしない。決して寄り添おうとはしない。それを互いが望んでいるからだ。
「どんな決断をしようと私にはどうだっていい。だが、腐っていくものには興味がない。朽ちる前に見限るだけだ」
ああ、この男に見限られるのは困るな。他人事のように思って、そこで俯瞰することを思い出した。目まぐるしく変化する状況の渦中で忘れていた感覚だった。
「少し、考える」
短く告げた言葉は、少し頼りなく感じた。事態は何ひとつ変わらない。ふつふつと煮えるような苛立ちはまだ燻っている。けれど、ネーベルスタンは確かに落ち着きを取り戻していた。
素直に謝意を述べようと口を開いた瞬間だった。ナルセスがビッと隣室への扉を親指で指した。言葉を音にする前の状態で、ネーベルスタンは口を開けたまま固まってしまった。
「それで、やるのか、やらんのか」
なぜこの流れでそうなる。
剛速球の問いを投げたナルセスには、あざけりもからかいもない。ただ単に疑問を口にしただけだと言わんばかりの態度である。
唇を引き結んで、湧き上がってきたいくつもの言葉を飲み込んだ。言いたいことはいろいろとある。が、ここでそれを返答とするのは据え膳食わぬはなんとやら。負けた気分になる。それで結局、一番単純な一言をもって返すことにした。
「やる」
ネーベルスタンの答えに、ナルセスはふっと口端を吊り上げた。そうだろうな、と言わんばかりに、満足げに。どうも、今日は特に、掌の上で転がされている気がしてならない。
息を一つ。立ち上がったネーベルスタンは部屋にある二つの扉のうち、外に繋がる方へ向かった。開くと、やはり使用人の男が一人立っていた。改めて人払いを命ずると男は粛々と頭を下げた。
これで、そんな関係じゃない、と弁明をすることもできない。