シルマールの元へ向かう際、ナルセスはいつもシャルンホルストの港を利用している。南大陸の玄関口の一つであるその港は貨物も人も多い。その日は定刻を少し過ぎての到着だった。ナルセスは早く甲板に出て、ぼんやりと陸地を眺めながら舷梯が降ろされるのを待っていた。
 その時、船を見上げる男と目が合った。長い髪を頭の高い位置でひとつにまとめている。礼服を纏った男が、ナルセスは最初、誰だかわからなかった。男に目をそらす気配はない。顔見知りだろうかとしばらく眺めていたが、礼服を着るような人物に思い当たる節はない。気がついたのは、視線を外そうとした間際だった。男が片手を掲げ、数度口を開閉させる。声は聞こえない。そもそも音は乗っていないだろう。それでも、名前を呼ばれたのがわかった。
 それが、船が着岸してから舷梯が整うまでのことだった。足早に港に降り立つ。
「なぜここに」
 開口一番、挨拶もなしの詰問をぶつけられたネーベルスタンは一瞬白けた顔を見せた。
「用事があって、ついでに」
「迎えを頼んだ覚えはないと言っている」
「だから、ついでだよ。この前受け取った手紙にそろそろ来ると書いてあったからな。もしかしたらいるかもしれないと思ったんだが」
 ネーベルスタンが船を見上げる。ナルセスが乗っていた船から次々と出てくるのは、木箱やら小包やらの荷物ばかり。
「まさか貨物船から降りてくるとは思わなかった」
「海が荒れていたからな」
「確かにこの時期は荒れやすいが」
 それと貨物船になんの関係が。首をかしげるネーベルスタンに、ナルセスは辺りを見回して「ああいう輩が多い」と港の隅でしゃがみこむ人物を指した。しばらく眉間に皺を寄せて眺めていたネーベルスタンもその意味に気づいた。一瞬晴れた表情は、しかしすぐに渋く歪んだ。船室を想像したに違いない。
「……なるほどな。俺も気をつけよう」
 航海に不慣れな人間がひしめく船上で、一人が不調を露にすればそれはもう見事に伝播していくもので。雑魚寝が基本の客船は地獄の有り様だろう。それに比べれば、船乗りと荷物しか乗っていない貨物船は平和そのものと言える。
「ナルセスは……なんともなさそうだな」
 足取りも顔色も平時そのものだ。慣れているわけではないが、やり過ごす心得はある。じっとしていればどうということはない。
「そういうお前は」
 船は平気なのか、と問いかけようとして、口をつぐんだ。この男の故郷は南大陸屈指の海軍を有している。乗れないはずがないだろう。わかりきっていることを尋ねる必要はない。それに今、故郷の名前を聞くのは、憚った。
 半端に言いさしたものだから、ネーベルスタンはきょとんとして首をかしげている。逡巡はごくわずかに、話題を変える。
「……なんだ、その格好は」
 多少強引な気もするが、この瞬間に投げかける疑問としては真っ当だろう。爪先から頭までを無遠慮に眺める。見たことがない格好をしていた。
 レースやマントこそないものの、襟の詰まった上衣は上等な仕立てだと一目でわかる。腰に穿いた細身の剣は柄頭に赤い鉱石が嵌め込まれ、鞘にも丁寧な彫り物が施されている。おそらく実用品ではない。豪族か上級商家のようだった。それに。普段は下ろしている髪が、高い位置でまとめられている。
「ここの領主に用があったんだよ。相応の身なりに整えただけだ」
 つまり、準正装ということだろう。なんてことのないように言ってのけたが、テルムの物流を支えるこのシャルンホルストの領主に面会ができることに、特別な意味があることを知らないのだろうか。そんなわけはない。ただ、深く考えていないだけだ。
 ナルセスにじとりとした視線を向けられる理由を、ネーベルスタンは『いつものよくわからん不機嫌』だと断じたらしい。大して反応もせずに「先生の元へ行くのだろう?」と歩き始める。反論する理由はないから、ナルセスは黙ってその後を追った。
 まとめた髪が揺れる。目の前にある後ろ姿が遠く見えた。雑踏に舌打ちを紛れさせる。苛立っていることそのものが気に食わなかった。なぜこうも振り回されなければならないのか。
 この男と己の隔絶を、まざまざと見せつけられたようだった。
 胸やけのような居心地の悪さに苛まれる。最初からわかっていたのに。思い通りにならなくてへそを曲げるのは子供のすることだ。それも、自分の感情のコントロールができないことなのだから本当に滑稽だ。
 ゆらゆらと揺れる髪と同じリズムで長い髪紐が翻る。なんとなしに目で追っていたその紐が、簡単な結び方だからすぐにほどくことができると気づいた瞬間。ナルセスはほとんど反射的に手を伸ばした。
「いっ?!」
 思い切り髪を引っ張る。
 引き攣った悲鳴と共に首が後ろへ傾く。手の届かなかった場所が近づいて、ナルセスは後頭部に腕を伸ばした。
 手にした紐は案の定、引っ張るだけで解かれた。ばらっと髪が広がる。「えっ、うわっ」と気の抜けた声と同時にネーベルスタンが髪を押さえる。
「なんのつもりだ!」
 じろりと睨めつけるネーベルスタンに、ほどいた髪紐を押しつけた。
「似合わん」
「は」
「これで多少は見れるようになった」
 わかりやすく憤るネーベルスタンの、よく見知った顔に、よく見知った髪。格好だけはそのままだが、ひとまずナルセスの気は晴れた。

イベント無配……だったんですが、書いたのは自体は…たぶん五・六年前とか…?
ベルナルの身分差…というか立場の違いの話。なんですが単純に、船でやってくるナルさんを出迎えるベルっていう構図がいいなあと思って書いたんですよねえ。
230826

» もどる