たった一日の荒野の同行といくらかの会話。それだけで「あなたに薫陶を受ける許可を願いたい」というネーベルスタンの申し出を受けたのは、様々な要因があろう。彼から実直さを感じるだとか、槍の使い手として目を瞠るところがあるだとか、こちらを真っ直ぐ見て話をするところだとか、生家のコネクティングの太さだとか。本当に、様々な。
 といえど、結局のところは「まあいいかな」と思える直感が働いた。だから、岩荒野を抜け、グリューゲルで食事を済ませ、店を出たところで先の言葉を聞いた時、シルマールは「構いませんよ」と二つ返事で応えた。シルマールにとってはそれだけのことだった。
 それだけで済まなかったのは、申し出た方とたまたま居合わせた方だった。居合わせた方ことナルセスは、間髪入れず「はあ?」と抗議の声を上げた。シルマールではなく、ネーベルスタンに向けて。ネーベルスタンも、彼は彼で思わぬ即答に驚いていたようだったが、いわれなく自分に向けられた抗議を無視する性分ではない。往来での舌戦は即座に沸騰した。たとえ炎のクヴェルでもこんな瞬間湯沸かしは不可能だろうなあと感心する(呆れる)ほどの熱量であった。この二人は荒野の真っ只中でも一悶着、二悶着、三、四、五……と舌戦を披露してくれたが、まだ足りなかったらしい。
 結局、シルマールが冷ややかに「私とネーベルスタン君のことにあなたが首を突っ込む権利はありませんよ」とナルセスを突き放して口論は収束する。その瞬間は色を失ったように見えたナルセスだったが、「今日は宿を探します」と別れを告げたのは二人きりで話ができるように、と単純に気を遣ってのことだろう。憮然とした様子はどこにもなかった。
「さあ、立ち話もなんです。ネーベルスタン君は私の家に泊まっていきなさい」
 話さなければいけないこともたくさんあるし、と考えての提案に、ネーベルスタンは頷いた。
「はい、よろしくお願いします。シルマール殿」
 その、どこか緊張感さえ漂う口振りに、シルマールは笑みをたたえたまま硬直した。
──なるほど、そうきたか。確かにそうなるか。
 一呼吸の戸惑い。たったそれだけの時間は、ネーベルスタンが違和を捉えるには十分だったらしい。
「シルマール殿? どうされましたか」
 再びの呼び名に今度はうぐっと奥歯を噛んでしまった。なんでもありません、の一言が音にならない。気遣いの言葉がさらなる追い打ちとなったことで、はっきりと自覚する。宮殿住まいを思い起こす。一歩引いた人との距離。その呼び方は苦手だ。
 彼の出自を鑑みれば、シルマール殿などと堅苦しい敬称がさらりと飛び出すのは当然だろう。けれど、今の今までシルマールと呼ばれていた。その気安さも「まあいいかな」を構成する要素の一つであったから、残念な心地になるのは仕方がない。
 さて、これをどうやって伝えたものだろう。
 師となった者がいきなり黙り込んだのをネーベルスタンは悪い方向に解釈したのか、「先の無礼な口振りは、どうかお許しください」と頭を下げようとする。
 そんなことはしなくていいのに! 慌てたシルマールは思わず「逆です、逆!」と大声をあげた。
「逆、ですか?」
「ただの友人のように接してくれることは、とっても嬉しいことなんです。そのことで謝ろうとするのはやめてください」
「……わかりました」
「ほら、歩きながら話しましょう。ここから少し距離があるんです」
「わかりました」
 横に並んだ二人は郊外へ向けて歩き出す。ネーベルスタンが背後に控えようとしないのは、今の言葉に効果があったと考えていいのだろうか。
「……私は、たった今まで旅の同行者として、友人として接していたんです。それが急に畏まった態度を取ったら、他人のような距離を感じて寂しいものでしょう?」
「それは、理解します。ですが師として仰ぐ人に気易い言葉はかけられますまい」
「ええ、それも道理です。ですから、折衷案を採りませんか」
「折衷ですか」
「具体的には、呼び方を別のものに。もう少し柔らかい表現をしてください」
 むむ、とネーベルスタンの眉間に皺が寄る。目鼻立ちのはっきりした相貌だと一層凄味が出て迫力が増す。けれど、彼が今懸命に考えているのは、どうしたら柔らかい表現で敬意を示した呼び名ができるか、だ。様、は畏まってますよね。師では柔らかくない。他になにか……。あくまでも生真面目に、ぶつぶつと呟くネーベルスタンが可笑しくて笑いがこみ上げる。
「ほら、さっきナルセス君は私のことをなんて呼んでましたっけ?」
 ヒント、もとい答えを提示すると、険しい表情は霧散し、ああとため息交じりの声を漏らした。
「先生、ですか」
「はい。そう呼んでください」
「なるほど、確かに柔らかいと評するに値しますね。わかりました先生」
 ネーベルスタンが再びキリリと引き締まった表情に変貌する。畏まった云々はこの表情の印象が大きいのかもしれない。シルマールが一抹の物寂しさを覚えた、その時だった。
「先生……」
 不意に、ネーベルスタンが破顔した。
 初めて目にする表情だった。この一日、行動を共にして見つめたネーベルスタンという男から想定できる表情ではなかった。
「なんです?」
「その、自邸にいた頃は剣や学問の教師を先生と呼んでいたのですが、こうしていると、幼い時分を思い出すようで……」
 尻すぼみになると同時に、頬がわずかに紅潮する。
「先生、良い響きですね。まったくこんなシンプルな言葉がわからなかったとは」
 自嘲でも悲嘆でもない。控えめの、けれど子供のような笑みがあった。
「ええ。学ぶことはたくさんありそうです」

サガエアフェス4展示でした。先生を先生認定する前とした後の話。
220522

» もどる