廃墟の片隅で、ヨハネはしばらく動けずにいた。
 かつての同胞からの襲撃は、もはや慣れたものだった。ふらりと姿を現す奇抜な風貌の人間を見たところで「ああ来たな」としか思わない。ヨハネはただ粛々と剣を抜く。来るものは来るのだから、今更驚きも恐怖もない。その対処が厄介だとしても、だ。
 数日ぶりの追っ手にとどめの一刺しを加える間際。ヨハネの精神は極限まで張りつめていた。呼吸のいとまもない命のやりとりだった。だからこそ、人体からアニマが失われるその瞬間まで、目の前の敵に全ての神経を向けた。
 それはある種の油断だったのかも知れない。
 死んだ、と確信したと同時。ヨハネの緊張は右足の激痛で破られる。視線を向けた先で、獣のモンスターが自身の足に食らいついていた。

 久しぶりに酷い戦い方をした気がする。
 うずくまるヨハネの視界には、数分前に殺したサソリの追っ手と数秒前に殺したモンスターが横たわっている。モンスターの方はどうやって殺したかよく覚えていない。わかるのは、全く想定していなかった襲撃でパニックに陥ったということだけだ。人里から離れたこんな場所、モンスターの一匹や二匹いたっておかしくないよな、とぼんやりとした頭で反省をする。
 だとすれば、やるべきことがある。サソリの術は万能じゃない。秀でた術者ほどよくきくがその逆は効果が薄い。それは、なにも術不能者だけのことじゃない。
 まき散らした血のにおい。あまりのひどさにヨハネは顔をしかめた。弱った人間の嗅覚でさえこれだ。飢えた獣であれば、数キロ先から知覚してもおかしくない。
 なによりも止血。それから距離を取る。しっかりとした治療はその後に。自身が取るべき最適の行動をヨハンは知っていたが、動けずにいた。傷が深い。そして怪我の位置も悪い。では次善の策は何処か。
 できるだけ右足を動かさないよう、ずるずると下半身を引き摺って移動する。サソリの死体を漁ると程なくして目当てのものを見つけた。針と糸。多くのサソリは縫合の道具を持たされていた。もちろんヨハネも持っていたが、既に使い尽くしていた。サソリのそばでモンスターに襲われたのは不幸中の幸いと言えようか。いや、サソリの相手をしていなければ、こんな怪我など負っていなかったかもしれない。
 周囲に警戒を向けつつ、千切れかけのブーツを脱いで傷を確認する。激痛を発する右のふくらはぎを見、思わず「ああ」と低い声を漏らした。なるほど、この痛みも納得だ。ともすれば食い千切られていたであろう傷だった。あと数センチ傷が深ければえぐられた肉が落ちていた。それも、刃物ではなく牙によるものだから、傷口がずたずたで、我が足ながら相当にひどいことになっている。正直、直視に堪えない。
 ヨハネは天を仰いだ。空は赤い。じきに夜が来る。一度大きく息をついて、吸って、傷と向き直った。
 マフラーを口いっぱいに含む。このままではろくに縫えないから、まずは綺麗にしなければならない。死体が手にしていたツールを借りて水のアニマを引き出す。ただのシンボル術が、いやに汗が滲む。水勢が強くならないよう注意を払って足を洗う。水を流す度にくぐもった呻き声が漏れた。
 数回の洗浄を終え、強ばっていた肩の力を抜く。出血は思っていたよりも少なかった。最悪焼くことも想定していたが、この程度なら縫える。施術後はこの場から離れるだけでいい。二体分の死体がカモフラージュになれば、血のにおいを辿られる可能性は低いだろう。
 懸念要素の一つを解消したが、安堵するには早い。まだ縫合はできない。再度大きく息を吸って、懐から短剣を取り出した。ぐちゃぐちゃの傷口に刃を当てる。邪魔になる肉と皮をそぎ落とす必要がある。息を詰めて、刃を滑らせる。できるだけ薄く、まっすぐに。元々の激痛に、異なる痛みが加わる。奥歯がギィと音を立てた。凝視する瞳は乾いて仕方ない。それでも短剣の動きに迷いはない。
 はたして、乱れていた傷を整えたヨハネは短剣を静かに置いた。次いでマフラーを吐き出す。これで、ようやく縫合ができる。糸は足りるはず。しかし何針縫うことになるだろう。モンスターは近づいていないだろうか。なんにせよ、ここまで来たらあと一息だ。慣れた手つきで傷口を押さえ、一針目を刺した。

 チクリとした痛み。普段なら眉も動かないようなちっぽけな痛み。だが、それを感じた途端、ヨハネの瞳からぼろりと涙がこぼれた。
 えっ。と、驚いて目を丸くする。一粒、また一粒と涙がこぼれていく。涙が滲むような痛みじゃない。今縫っている傷の方が、よっぽど堪えられない痛みのはずだ。視界が悪くなるから、傷を負った時は涙を湛えることすらなかったが。
 次から次へ、涙は止まらない。どうしてこれは止まらないんだろう。痛みは原因じゃない。だとしたら、どこに理由があるんだ。

 自問を続ける間も、ヨハネは黙々と針を通す。11を数えたところで、糸を止めた。借り物のツールで癒やしの術を施す。治しきる前にツールが音を立てて壊れた。ヨハネの手元に水術が使えるツールは残っていない。だが、いくらか治せただけでも上出来だろう。
 脱いだブーツを手に取り立ち上がる。一刻も早くここから離れなければ。だが、まだ思い切り動かすには不安がある。日が落ちきるまで右足を引きずりながら歩いたヨハネは、樹上をテリトリーにしているモンスターがいないことを祈りつつ、左足を軸に木を登った。絡み合った枝の上を寝床にすることに決めた。歩いているうちに涙は乾いていた。
 明日は、まず水場を探す。死体を置いてきた廃墟からさらに離れる。その道中で食料を確保する。この足では獣は相手にできないから、木の実が中心になる。モンスターの目からも逃れなければ。追っ手は来ないことを祈るしかない。そうして、生きなければ。
 生きなければ。サソリからもモンスターからも逃げて、逃げて、逃げ続けて、生きなければ。この逃避行に終わりはないのだろうけれど、行き先はどこにもないのだけれど、だからといって死ぬのは嫌だ。生き続けたい。
 本当は、痛いのも嫌だけど。
 ヨハネは静かに目を閉じた。ズキンズキンと、足の痛みは一晩中消えなかった。

ついったで縫合するのイイヨネ…て話してたら催促されたので。這いつくばってでも生きたいヨハンには無自覚の涙が似合うんだ。
そういや足を7針縫ったことがあるんですけど、洗うときが一番痛かったです。
220406

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