「ちょっと散歩してくる」
 短く告げると、レイモンは荷物を置いてすぐに宿を後にした。
 ただ、こちらがまだ宿帳を相手にしている最中に出て行くのはいかがなものかと思う。残ったパトリックとタイラーは宿泊手続きを済ませて、併設している酒場に入った。肴をつまみながらのぼやきに「そうだな」とタイラーが相づちを打つ。
「レイモンがここに来るのは初めてだったかな」
 町に立ち入った途端、あちこちに目を奪われていたのもそのせいだ。樹海の西側、ロードレスランドの東に位置するこの町は、探索行の中継地点として最適だ。地理のわりに発展しているから、店も職人も多い。着いたのは夕暮れ時で、明るいうちに散策をしたいという考えはわかるけれど。
「落ち着きありませんよね」
「二十を過ぎたばかりだ。あんなものだ」
 雑談をしていると自然と周囲に人が増えていた。タイラーは店の馴染みのようで、次々に声をかけられる。パトリックはそこに便乗して紹介してもらう。中には知った顔もあった。そうして休憩と情報収集を兼ねるのが酒場の役割だが、こういう時にレイモンが同席することは少ない。あちらはあちらで交友を広げているようだが、こんな慣れない土地ではどうしているのだろう。どちらかというと話しかけられる方が多いパトリックは、レイモンのやり方が気になる。
 グラスを三つ空けたところで、風に当たってくると席を立った。日が落ちて時間がたっている。あまり酒場から離れないようにしつつ店の周りを一回りする。狭い場所は避けようと道を一本素通りしようとした時だった。人の気配がする。何の気なしにその路地を覗いた先に、見慣れた人影が落ちている。
「レイモン?」
「あー、パトリック、かあ?」
 若干呂律が怪しい返答があって、パトリックは路地に踏み入れる。狭くて、暗い。そんな場所で、レイモンは壁に凭れてだらしなく座り込んでいる。どこか別の場所で飲んでいたようだ。
「こんなところでなにしてるんだ」
「酒の混ぜモンが、最悪でさあ」
「混ぜ物?」
「すげえよかったんだけど、うう」
「お前どこで飲んでいたんだ」
「つうか、ここ、すげえまぶしい」
 問いに答えないどころか、レイモンの言っていることはめちゃくちゃだ。最悪なのに良いだとか、月しか見えない路地裏なのに眩しいだとか。どんな悪酒を掴まされたらこうなるのだろう。少なくとも、パトリックが宿を取った酒場は、良くも悪くもない、普通のエールを提供していた。
「なあー、パットぉ、手ぇ貸して」
 眩しいと言った通り、レイモンはぎゅっと目を瞑ったまま手を伸ばしている。
「本当に、仕方のないやつだ」
「うえ、へへ」
 吐き捨てながら引っ張り上げて体を支える。嫌味の言葉も大きなため息も、この酔っ払いには意味がないだろうが。
 仕事終わりとはいえ、はじめての町で羽目を外しすぎだ。後で説教だとな、と平淡な心地で予定を立てる。
 そのまま出てきたばかりの宿まで引き摺っていく。タイラーはまだ他の冒険者と話し込んでいた。レイモンを抱える姿を横目で見、苦笑するが席を立とうとはしない。商談でもしているに違いない。代わりに、店主が笑い声で出迎える。
「なんだなんだ。酔っぱらいの介抱か」
「そんなところだ。部屋を使うぞ」
「ご自由に。ああ、ベッドを汚すなよ!」
 吐くところは見たことがない。その心配は無用だろう。適当に返事をして店主の横を通りすぎた時だった。「ちょっと待て」と、うってかわって緊迫した声をかけられる。
「そいつ、その匂い、どこで拾ってきた」
「どこって、すぐそこの道端だ」
 息を呑んで項垂れた店主は、しかしすぐに顔を上げた。「来い」と腕を掴まれて裏口から連れ出される。泥酔しているレイモンを落とすわけにはいかず、三人で外に出た。酔いに効く薬湯でもあるのだろうか。おとなしく従ったパトリックだったが、扉を閉じて振り返った店主の殺気だった形相に目を丸くした。
「そいつは捨てろ。おれの店に入れるな」
「なんだって?」
「なんだもくそもあるか。この匂いに気付かないのかよ?」
 匂いと言われてパトリックはようやく気付いた。確かに、レイモンの髪や服から甘ったるい匂いがしている。酒のせいではない。密室で香を焚かなければこんな匂いの染み方はしない。だが、これがなんだというのだろう。わけがわからないと店主に向くと「ああ」と呻いた。
「お前はここの人間じゃなかったか。だったら尚更だ。悪いことは言わねえ。こいつは麻薬をやってる」
 麻薬。頭の中が真っ白になった。レイモンの腕を掴む指が冷えていく。感覚を確かめるように握り直した。
「わかったか? 一緒にいたらお前も同類だと思われるってんだ」
 指を突きつけられて、ようやくパトリックの口から出たのは弁解の言葉だった。
「違う」
 真っ白になったパトリックの中で、一番最初に形になったのはその一言だった。
「やって、いるんじゃない。やらされたんだ」
「どこに根拠があるんだよ。いいから、外れに捨ててきてくれ。この匂いは嗅ぎたくない」
「できない。知らないやつを拾ったんじゃない。レイモンは俺の連れだ」
 途端に店主の目が泳いだ。宿に着くやいなや外へ飛び出していったレイモンを店主は覚えていなかったらしい。今まさに、パトリックは同類だと思われている。
 その時、裏口の戸が開いた。
「パトリック、どうした?」
 タイラーさん、と思わず呼んだ声は、随分と情けない響きだった。
「おやじさん、客が待ってるぞ。酒はまだかと暴動が起きそうだ」
 場を和ませる言い方したタイラーは、しかし蒼白になっている二人の様子に首を傾げる。先に答えたのは店主の方だった。
「タイラー。お前からも何か言ってやってくれよ。こいつ例の葉っぱを蒸かしてたんだ」
 途端にタイラーの温厚な風貌に緊張が走った。「よく見せてくれ」と有無を言わせない気迫に押されて、パトリックは手を離してレイモンを壁に預ける。重力のままずるずると地べたに座り込む。眠ってはいない。起きている。だが、これを意識があると表して良いかは疑問だ。目の前にタイラーがいて、なにも反応を示さない男じゃない。
 影になって見えないが、きっと、レイモンの瞳は虚ろだ。
 しゃがんでレイモンの様子を確かめていたタイラーが立ち上がった。
「騒ぐなら口を塞ぐ。暴れるなら手足を縛る。これ以上の迷惑はかけん。頼む、部屋を貸してくれ」
 タイラーが姿勢を正して頭を下げる。その横でパトリックも倣う。許しを得られなかったら野宿になるなとちらりと考えながら。
「タイラーが言うんじゃ仕方ねえや」
「恩に着る」
 もう一度深く礼をしてから、パトリックはレイモンの腕を肩に回した。先ほどよりもずしりと重い。混濁しているのか、力が入らないのか、区別はつかない。少なくとも完全に意識を飛ばしているわけではないようだが、どちらにせよ一人では運べそうにない。目配せに首肯で返したタイラーと二人で、二階の部屋まで連れて行く。
「この町はな」
 ベッドにレイモンを下ろしたところでタイラーが口を開く。穏やかな口振りだ。
「何年か前まで薬の類いが横行していて、ここのおやじさんもずいぶん苦労していたんだ」
「だから、あの態度だったんですね」
「レイモンがどこにいたのかわかるか?」
「いえ、すぐそこの路地で拾っただけで、それ以外は」
「そうか。離れていたのは一時間……もう少しあったかな」
「町に入ってから日が沈むまでなので、二時間もありませんね。それくらいです」
 タイラーは出所を探るつもりなのだろう。手がかりにはならないだろうが、念のため、レイモンが倒れていた場所を詳細に伝える。案の定タイラーの表情は渋い。情報が少なすぎる。
「こいつは、酒の混ぜ物が最悪だったと言いました。たぶん勘違いしてます。その葉っぱを蒸かしたせいじゃなくて、飲んだ酒のせいで悪酔いをしたんだって」
 レイモンはいい加減なやつだが、麻薬に手を出す人間じゃない。そういうたがの外し方はしない。だがら、きっと不可抗力だったんだ。パトリックはそう信じている。
「薬なんて使わない」
 先ほどからじっとレイモンを見つめているタイラーも、レイモンを疑っているわけではない。わざわざ口にしたのは、不安だからだ。
 なにかが崩れていきそうだからだった。だって今も、レイモンは目を閉じたままだ。上下する胸の呼吸は浅い。ヴィジランツは死と隣合わせの毎日を過ごしている。だけど、こんな情けない死に方があるか。パトリックは拳を握る。
「……酒か」
 タイラーがつぶやくとほとんど同時に部屋の扉が開いた。先ほどまで言い争っていた店主が、水を張った桶と布の包みを持っている。
「ほら、シャブ抜き用だ。やり方はわかるよな?」
「ああ……そうだな、パトリックにやってもらおう。おやじさん、当てができた。酒場だ。はじめてこの町に来た人間でも入れる場所を当たる」
 店主の顔色がわずかに晴れた。「下で何人か声をかける」と言い残してバタバタと駆けていく。タイラーに水の使い道を教わっている最中にも、酒場にいた冒険者が何人か部屋を出入りした。コップやら布巾やら、軽食まで運ばれる。大事になる予感がする。
「タイラーさん、私は」
「調べてくるから、お前はレイモンの世話を頼む。一日では終わらないかもしれない」
「わかりました」
「パトリック、心配しすぎるな」と、肩を叩かれる。「対処をすれば数日で戻る。レイモンは、耐性がなかったからこうなっているだけだ。吸ったことがないって証拠だよ」
 事実を告げただけであろう声は、いやに柔らかい響きを持っていた。一瞬返事に窮して、パトリックは「大丈夫ですよ」と首を振る。
「私はただ、嫌なんです。こんな腑抜けみたいなレイモンが」
 タイラーの目には憔悴しているよう写ったのかもしれない。気遣いはありがたいが、その認識は誤りだ。
 パトリックの気分は最悪だった。
 人の出入りが途絶えた部屋で、パトリックは一人、レイモンを見下ろす。運び込まれた物品には手もつけず、拳は握り込んだままだった。レイモンが目を開ける短い時間を、不動のまま過ごした。
「なんか、いろんなとこ痛い」
「麻薬を吸ったからだろうな。処置をすれば問題ないらしい」
「あは、ほんとかよ」
 へらへらと気の抜けた笑みを浮かべる顔が、今は歪んでいる。カエルが潰れたような呻きが口端から漏れる。
「きもちわる」
 吐き気がした。
「最悪」
 腹の底がむかむかした。
「パット」
 気持ちが悪かった。
「たのむから、たすけて」
 こんな人間は知らない。顔をぐしゃぐしゃにして懇願するレイモンを、パトリックは知らない。知らない顔が一心不乱に助けを求めている。焦点の定まらない目を必死に動かして、こちらを見ている。気持ち悪くて、踏み潰して粉々に砕いてやろうかとすら思う顔が。
 それでも、パトリックは拳を解いた。布巾とコップを手にした。この男は運が悪い。少し目を離した途端にこれだ。しょうがないやつなんだ。だから、俺がみてやらないと。
 ため息を飲み込んだ。
「助けるから、黙れ」

 その日パトリックは、こんなに人に尽くしたことはないというくらい、甲斐甲斐しくレイモンを介抱した。暴れはしなかったが、うわ言が多かった。不明瞭な言葉を聞くたびにため息を飲み込んだ。飲み込んだ分だけ、気分が悪くなった。腹の底のむかむかした気分はずっと在ったままだった。
 翌々日、目に見える異変が消え、まともに口をきけるようになったレイモンが「お前の飯が恋しい」なんて軽口を叩くまで、ずっとだった。
「食い物もらえるだけありがたいけど、絶妙にイマイチだ」
「まずくはないんだろう。我慢しろ」
「愛しのパトリシアに作ってほしいの」
 ふざけた口振りを久しく感じた。
「……パティちゃんじゃないのか」
「そこ突っ込む?」
 へら、とレイモンが半笑いを浮かべて、その時、パトリックはこいつの顔を踏み潰さなくてよかったと思った。

webイベントに合わせて書いた話でした。
わたしはこれ以上ないってくらいの嫌悪感でどろっどろになってるけど最終的には仲良しっていうのが好きなので(ヘキが難儀すぎ)今回のパトリックくんは書いててちょ〜〜〜〜〜楽しかったです。あと単純に弱ってる男が好きなんですが、レイモンって怪我とか風邪とかでもこういう弱り方はしなさそ~と思うので、根本からだめにするに怪しい葉っぱを吸ってもらいました。いずれにせよ、パトリックとレイモンでこういうのを書くのは最初で最後だろーな。
210124

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