シルマールを先生と呼ぶ人物は既に何人もいましたが、本当の意味での教え子は一人きりでした。ほかは、友人であったり、恩人であったり、まちまちです。
 その教え子、ギュスターヴのことでシルマールは悩んでいました。八歳になったばかりの少年です。グリューゲルに越してきて一年がたち、ここでの生活も十分に慣れたでしょう。グリューゲルにはさまざまな人が集まります。行商人から貴族まで、大人も子供も関係ありません。そんな多様性のおかげもあってか、術不能者への差別も少なく済みます。
 それなのに、ギュスターヴは馴染めずにいます。ギュスターヴが、馴染めないのです。確かに、彼はほかとは比べ物にならない特異性を持っています。人を寄せつけることも、人に近寄ることもできません。ただ、それは特異性のほかに理由があるのではないか、とシルマールは睨んでいました。そして、その理由がわからないのです。
 シルマールは、ギュスターヴとその母、ソフィーの二人が心身ともに健やかに過ごせることを望み、グリューゲルへの船舶を確保しました。戦乱のない南大陸は間違いなく安全です。しかし、心身の片方だけでは意味がありません。
 人を教え導くのが先生の役割です。それを果たせないまま、母子が住まう屋敷からの帰路を歩くシルマールの足取りは重々しいものでした。

「おかえりなさい、先生」
 廊下の奥から届いた声にはっとして、シルマールは微笑みをつくりながら「ただいま」と返事をしました。シルマールを先生と呼ぶ人物のうち、一番最近に知り合ったネーベルスタンです。友人で、同居人で、シルマールが師事を許した数少ない人物です。
 シルマールに教えを乞う人は大勢います。大抵は術の研究に関してで、話を切り出された当初はネーベルスタンもそれが目当てかと思われましたが、どうも様子が違いました。姿勢を正して聞くと、あなたの元で人としての造詣を深めたい、と言ったのです。それが、初対面の、その日のことでした。想定外の壮大な台詞に面食らったのは最初だけでした。話をするうちに、この男は信頼に足る人間だと判断したのです。とはいえ、彼がワイドの名将ストーレの子だと聞いて打算的な考えが巡ったのも事実でした。
 経緯はともあれ、ネーベルスタンは深く礼をしたのち、三つの座に収まりました。そして今は生活をともにしています。こうして留守を頼むのも何度目かのことでしたが、戸口に立ったままじっとシルマールを見つめるのは初めてです。
「なにか悩みごとですか」
 挨拶に続く二言目がこれでした。ネーベルスタンは時折驚くほど鋭い指摘をします。洞察力よりも第六感ではないかと思われるそれに助けられたこともありますが、今回はどちらかというと厄介です。まさか、術不能者で元王子の教え子が腐ってしまいそうで心配なのです――とは言えません。誰にも相談できないからこそ、シルマールは頭を悩ませているのです。
「私自身ではなく、古い友人の困りごとを。解決策がないものかと一緒に考えているのですよ」
 さらさらと告げた内容に嘘はありません。ただ、曖昧な言い方でなにか察したようで、ネーベルスタンは「それは心配ですね」と簡素に頷いただけでした。その気遣いをありがたく受け取って、沈黙を避けるために口を開きます。
「ネーベルスタン君はどうですか。ここでの生活には慣れましたか」
 我ながら不自然な話題の振り方だな、と失敗を自覚します。それでもネーベルスタンは余計なことを言わず、返答だけを用意しました。
「実は」少しの沈黙を挟み、「以前は、この街に良い印象がなかったのです」
 予想外の言葉で、シルマールは目を丸くしました。対するネーベルスタンは少し慌てたように早口で「今は違いますよ」と付け加えます。
「幼い頃、グリューゲルに留学していました。その時の思い出のせいで」
「この街に。それは初耳です。よければ教えてくれませんか」
「そう言うと思いました」
 照れくさそうにはにかんで十五年も前の話を始めました。

 ネーベルスタンがグリューゲルへ留学したのは、八歳の時でした。
 その時、既に二人の姉が行儀作法見習いとしてグリューゲルに滞在していましたが、嗣子が赴くとなるとわけが違います。ネーベルスタンは慎重かつ大いに歓迎されました。しかしそこには、ナ国連邦とワイドの間に横たわるものと同じ、静寂の緊張が間違いなくありました。ネーベルスタン少年も当然その関係を知っていました。そのうえで、いつも通りに父の言いつけを守りました。誠実であること、礼節を欠かさないこと、人を傷つけないこと。特別なことはしなくていいし、特別な扱いを受ける必要もないと言われました。
 しかし、当人がいつも通りを心掛けても、そうはいかないものです。
 グリューゲルでの生活がはじまって一年がたった頃、宮殿の中で一人の少年と対峙しました。ネーベルスタンと同じく、グリューゲルに留学している領主の子息です。挨拶を交わしたことも、話をしたこともある顔見知りです。ただ、その時の表情は初めて見るものでした。
「おまえたちのせいで」
 少年が叫びました。

 少年の叫びはほとんど理解できませんでした。感情を爆発させたらしい少年の言葉は、支離滅裂で、要領を得ず、漠然としていたからです。認識できたのは憎悪を叩きつけられているということだけで、少年の言葉に正統性があったのか、それとも逆恨みだったのかはわかりませんでした。問いただすより先に、少年がアニマの奔流をネーベルスタンに放ったのです。
 その時、ネーベルスタンははっきりと見ました。いびつな形のアニマが向かってくるところを。

 それまで、ネーベルスタンはアニマの流れなんて感じたことはありませんでした。捉え方さえ、です。だというのにその時だけ見えたのは、きっと、叩きつけられた感情の、ひとつ残らずを認識したからでしょう。妬みを、僻みを、憎しみを。嗔恚のすべてがアニマとなって目に見えました。
 見開いた両目で、術が自分の体を傷つけようとするところを凝視しました。一秒が、十秒にも二十秒にも感じられて、その間、ネーベルスタンは父の腕に刻まれている傷痕のことを思い出しました。剣擊に抉られた痕です。空想の中でその痛みに顔を歪めて、それから、その空想はいつかよく似た現実になるのだろうと思ったものです。
 自分は戦いに生きる。だからたくさん傷つく。けれどそれは誇りだ。恐れず矢面に立つ誇り。主君を護るのか、侵略者と対するのか、わからないけれど、自分は絶対に背を向けない。小さな痛みを恐れなくなったのはそれからでした。既に覚悟をしていたのです。

「だけど、ああ。この傷に武人の誇りはない。私が最初に作るのは醜い傷痕だ。貴族の子として、甘んじて受けるしかない、この傷は」

 覚悟ではないその感情は諦めでした。ネーベルスタンは時が来るのを傍観するように待ちました。
 ところが、時間の流れは軽い破裂音で絶ち切られました。
 最初に、甲高い悲鳴が耳をつんざきました。それから、尻餅をつきそうになったのを、一歩二歩と後退してどうにか踏み止まりました。顔を上げると少年と目が合いました。そこにはやはり憎悪があって、けれど、次の瞬間には視線が遮られました。視界いっぱいに、柔らかな新芽の色が広がりました。
 それが服の色で、その服は法衣だと認識したところで名前を呼ぶ声が聞こえました。振り返ると、どこかお怪我は、と真っ青になっているメイドが膝をついていました。そこでようやく、痛みはどこにもないことに気がつきました。曖昧に首を振って答えましたが、メイドは聞いていなかったのか、まずは医局へと手を取られました。
 歩き出してからちらりと振り返ると、新芽の法衣を纏った人は少年の前に立っていました。後ろ姿だけが眩しかったのをネーベルスタンは覚えています。
 あの時、ネーベルスタンに手を伸ばした禍々しいアニマは、触れる直前で消え失せました。突然弾けて、きらめく飛沫を残して消えたのです。それがどんな原理かはわかりません。虹を透かして見たような、美しい飛沫に見惚れるばかりでした。ひとつだけ、あの新芽の人が守ってくれたのだろうと、確信していました。

 その少年を見なくなってから九年、グリューゲルを離れるまで、ネーベルスタンは平穏な生活を送りました。悪意にさらされることはあっても、傷つけられることは一度たりともありませんでした。
 十八になったネーベルスタンは帰郷しました。しかし、立派に成長した息子を見て、父のストーレは顔を曇らせました。そしてすぐに、一人で旅をして世界中を巡ることを勧めたのでした。

「父がなぜ旅を勧めたのか、その時はわからなくて。私はすぐに軍に入るつもりでしたが、きっと意味のあることだろうと思い、出立を決めました」
「ということは、今はその理由がわかっているのですね」
「推測ですが」

「今にして思えば、子供にとってこの街は広く、そして狭い場所だったのです。あの頃はグリューゲルが世界の全てでした。この大きな街でさえ息苦しくてたまらないのだから、世界中のどこも同じだと思い込んでいたのです。どこへ行っても、生きることは苦しいばかりだと。これがもし片田舎だったら、外の世界への憧れもあったかもしれませんね。とにかく、生きづらいばかりだと諦めた……きっとそうでした。本当の広さを知らないから、全てが同じだと諦めました。でも所詮は思い込みで、現に、十年も過ごしたグリューゲルで、今は新しい経験ばかりしています」
 ネーベルスタンが語り終える頃には、シルマールの心境に変化が訪れていました。一筋の光明を見たのです。世界最大の都市と言っても過言ではないテルムで、ギュスターヴは心無い罵声を浴びました。あの子はそれを世界中の総意だと思っていないか。白い目で見られるのに慣れて、それを当然だと感じていないか。
 きっと、同じなのかもしれません。幼いギュスターヴは、世界の全てを錯覚して、世界の小ささが見えていないのかもしれません。
 これはまだ憶測に過ぎない。けれど確かに、黎明なのです。

 それを、シルマールは自身を師と仰ぐネーベルスタンに教えてもらったのです。十五年前、宮殿で傷つけられんとしていた少年に、です。純然で稚拙ながら、それゆえに鋭い害意の塊となったアニマのことは、今でもはっきりと覚えています。そのアニマを相殺して消したことを、シルマールはひそかに恥じていました。子供を助けるのが善行だとしても、咄嗟のことだとしても、ああして人前で派手に術を放つべきではなかったと自省したのです。
 しかしこの瞬間、その念は薄れ、失せていました。あの時生まれたか細い縁がこうして繋がると、誰が想像したでしょう。出会いに、再会に、そして彼の言葉に感謝を。当人に伝えられないのを残念がりつつ、シルマールは全てのお礼をそっと胸に刻みました。
 すっかり晴れやかな心地を得て、シルマールは笑みを浮かべます。
「旅を通して、あなたは本当の広さを知ったのですね」
「そんな大層なものじゃありません」
 再び、ネーベルスタンは照れくさそうに肩を竦めました。
「旅の最初です。初めて海の向こうの港へ降りたら、誰も私を見ていなかったのですから。あまりの矮小さに笑ってしまったのです」

イベント無配だったものに加筆。どーしても筆が進まない時はですます調にしてます。ネーベルスタン少年の話はいろいろと考えていて、でも力量不足で書けねーわ…と思い、こういう形に。
ネーベルスタンの留学が1213年、シルマールとソフィーが出会ったのが1214年、ソフィーのグリューゲル宮廷留学が1215年……とこの辺の記述を見て妄想を膨らませました。ネーベルスタンが(気づいてないけど)シルマールに助けられ、ギュスのことで悩むシルマールがネーベルスタンに助けられ、ネーベルスタンはギュスに陥れられ、やがてシルマールの進言でネーベルスタンがギュス傘下に入る、みたいな流れがあると楽しいなーと思って。袖振り合うも多生の縁的な話。ちがうか。
190821

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