ちょっと頼みごとを、と手渡されたのは、真っ白の紙とペンだった。
「私の代わりに手紙を書いてくれませんか」
 申し訳なさそうに眉を垂れて依頼する師の姿に、ナルセスは違和感を覚え、その後に躊躇った。

 シルマールの元にはよく手紙が届いた。特に多いのが、近隣諸国の貴族からの誘いだった。平民ではあるが、シルマールにはフィニー王国の宮廷術士を勤めた実績がある。そこいらの素性の知れない術士とは一線を画しているために、貴族から声が掛かるのだった。しかし、当の本人は、こうした手紙を一瞥してこう言う。
「そのネームバリューだけなんですよ、彼らが見ているのは。手透きなのだからと言われますが、私はもう、誰に仕える気もありません」
 彼が淀みなく断言するのは珍しいことで、それを聞いたナルセスは、本当にもう、下手したら一生、シルマールは人に仕えないのだろうと思った。その理由が、未だフィニー王に忠誠を誓っているからか、宮仕えに懲りたからか、自身の研究に没頭したいからか、見当はつかないけれど。
 何にしろ、シルマールはそういった手紙が届く度に、一通一通返事をしたためて、淡々と断っている。その数は既に両手では足りないほどだった。それでも、礼を尽くす姿勢を崩さない。だからこそ、ナルセスは違和感を覚えたのだ。
「構いませんが、私が代わりでいいんですか? 手紙の書き方は我流ですし、私は……」
 というのも、シルマールにとって、ナルセスは友人の一人に過ぎない。仲介人でも、弟子でもない、この件に全く関わりのない他人だ。その他人が、断りの手紙を書くのは無礼に当たるだろうに。
 ナルセスの考えは、シルマールも承知の上だった。「無礼なくらいで丁度いいんだよ」と苦笑する。
「これ、四回目の返事なんですよ。丁寧に理由を説明して丁重にお断りしているのに、どうやら、報酬で押せばどうにかなると勘違いしているようで。困りますよねえ」
 つまり、本人はペンを取る気すらないのだと演出したい、ということだった。いや、演出ではなく、実際書きたくないのだろう。にこやかに肩をすくめつつも、言葉尻に嫌みが混ざる。心底苛立っているのを隠そうともしない態度がその証だった。
「そういうわけだから、多少乱暴な言葉遣いでも問題ありません」
「なるほど。そういうことでしたら、腕に縒りをかけます」
 シルマールに負けず劣らずの腹黒い笑みを浮かべて、ナルセスは自室の机に向かった。さらさらと紙面を文字で埋め尽くす。見知らぬ相手だが、師を煩わせる者にはばかることはなかった。
 自分はシルマールの友人であり、今たまたま滞在している者である。いくら懇切丁寧に断りを述べようとも理解の兆しが全くないために、どう噛み砕いて説明するべきか友人は頭を抱えている。そこで、代わりに私が簡潔明快に伝えるべくペンを取った。云々。
 程なくして完成したナルセスの手紙を見て、シルマールはいたずらな笑みを浮かべた。
「うん、素晴らしいね。ありがとう。これなら懲りてくれるでしょう」
 そう言いながら丸めた手紙を紐で止めたのを見て、ナルセスは首を傾げた。
「先生、蝋は押さないのですか?」
「押しますよ。後で」
 なぜ後で。自然に湧いた疑問を見透かして、シルマールは紙の束を見せた。それが何か、すぐに思い当たったナルセスは絶句した。
「返事をしなければいけない手紙が、まだこれだけあるんです。あ、もちろん友人からの手紙も含めて、だけどね」
 手紙を受け取る姿をよく見てはいたが、想像以上の多さだ。
「これは……大変なのでしょうね」
 その労力が想像できず、曖昧な言い方になる。だがシルマールは平気な顔をしていいえと首を振った。
「この頃はネーベルスタンくんが手伝ってくれるので、とっても助かっていますよ」
 あの男が手伝えるのか、と思ったが、ナルセスはすぐに考え直した。
「そういえば、あれでも貴族でしたね」
「立派な貴族ですよ。書き方をきちんと習っているんだろうね。最初の挨拶から湾曲な表現から、迷いもせずに書き上げるから驚きます。当然のことながら、字も美しい。……いつか見せてもらったらどうだろう」
「遠慮します」
 間髪入れずに断った瞬間だった。廊下の先、玄関から物音がして、続いて「ただいま戻りました」と男の声がする。
「噂をすれば何とやら」
 程なくして荷物を抱えたネーベルスタンが顔を覗かせた。
「おかえりなさい」
「遅れてすみません。ツール屋で少し、話し込んでしまって」
「ああ、あそこの店主は商売熱心ですよね」
 雑談を交えながら、買ってきた物を三人で確認する。その途中でナルセスは不意に、テーブルの上の革袋が目についた。ネーベルスタンが帰ってきた時に置いたものだから、彼の私物か何かなのだろうが、妙に存在感がある。その存在感の正体は、すぐに予想がついた。
「漏れはありませんね。ありがとうネーベルスタンくん」
 作業に区切りがつき、ネーベルスタンが件の革袋を握ったところで、ナルセスはその手首をぐいと引っ張った。ぎょっとした表情とかち合う。そこに驚き以外の感情が出ているのを見逃しはしなかった。
「これは、なんだ?」
 これ、とは、ネーベルスタンがたった今手に取った革袋のことだった。もちろん、袋そのものではなく中身のことをナルセスは聞いている。
「……俺の、槍の部品だが」
「ほう、なるほど?」
 口端が吊り上がる。相当に嫌な表情をしているのをナルセスは自覚した。革袋を半ば奪い取り、その目で中身を確認する。予想通りの物が目に入り、ナルセスは半眼になった。同時に横からシルマールも覗き込んで、呑気な声で「ああ、部品だね」と呟いた。
 なんだってこんなものを。ため息が漏れた。
「別に、いいだろう」
 と言うネーベルスタン自身も、思うところがあるらしい。目をそらしたのがその証拠だ。
 鉄製の、槍の穂。扱いに困るものを買ってきた。いくら術文化が東大陸と比べて重視されていないとは言え、そんなもの、どうやって手に入れるのか。その点も疑問だったが、この際はどうだっていい。
「なぜ使えない物をわざわざ」
「使えないわけじゃない。これも一緒にどうかと出されたんだ」
「それで買ったと?」
「安くしてもらったし、いつも世話になっている相手だ。そう無下にはできまい」
「……お前、いつまでたっても買い物と料理は下手くそのままだな」
「料理はともかく、買い物が下手だと? どういう意味だ!」
「わかっていないとは、ますますたちが悪い!」
 二人して声を荒げたところで、同時にふっと我に返り、視線を交わした。
 ほどほどにしないと、シルマール先生の額に青筋が浮かぶ。
 無言の意志疎通に成功して、言い争いの続きを再開した。買い物に上手いも下手もあるか。あるから言っている、せめて食い下がって値切るくらいしろ。心象が悪いだろう。その程度は常套手段だ。声のトーンを落とした口論の下、二人は新品の部品を持ち、戸口の武器を取り、極めて自然を装ってそのまま外に出る。武器の手入れをするなら外で、というのがこの家の暗黙のルールだった。
 扉を閉めたところで、形だけ残った罵り合いをやめる。妙なところで以心伝心ができるのに、いったいなにが楽しくて口論になるんだか。コントじみた一連の流れに、ナルセスは深く息をつき、ネーベルスタンは咳払いをした。

 新しく入手した弦を張るため、微調節を繰り返しながら適当な長さに整える。すでに慣れた作業に神経質になる必要もなく、ナルセスは「それで」とネーベルスタンに問いかけた。
「使うのか」
 なにを、とは言わずともわかるだろう。一足先に石の槍頭を完成させたネーベルスタンの手には、件の鋼鉄が握られていた。
「当然だ。使わないわけにはいかないだろう」
 鉄の穂は平たく鋭かった。柄に被せてはめ込むのではなく、先の割れた柄に挟んで紐で縛りつけ、さらに革の留め具で覆って固定するのだという。石製でも木製でも同じ型のものはあるが、ナルセスが見るのは初めてだった。
 しばらくは見つめるだけだったネーベルスタンが、おもむろに、足元に落ちていた木の葉を拾い上げ、刃を滑らせた。するりと撫でただけのはずが、真っ二つに割れている。おお、と感嘆。
「すごいな。力もアニマも込めていないのに綺麗に切れたぞ」
「そうでなかったら、本当に使い道がないだろう」
 二枚になった木の葉を眺めて目をきらきらとさせている姿は子供のようだった。呆れながらの言葉もまともに耳に入っていないだろう。すぱすぱと何枚か切った後、ネーベルスタンは屋敷に駆けていく。戻ってきた手の中には、先端が割れた柄があった。
「まさか、本当に使う気か」
 弦を引いて張り具合を確かめながら問う。革手袋をして穂を取りつけ始めたネーベルスタンは、さもあろうと首肯を返した。
「だから、使わないわけにはいかないだろう。使えるのだから」
「武器として使えても、お前は術が使えなくなる」
「んー」
 鉄製品が忌み嫌われている理由を忘れたか、と呆れを通り越して哀れに思い始めた。作業に集中している男はその声色に全く気づかない。柄の溝に穂を挟み込んだ上から麻紐を巻きつけていく。片端を噛んでぎりりときつく縛る様子を見ると、ただの冒険者であるように錯覚する。貴族というには野蛮だ。
 結び終え、口を離したネーベルスタンがようやく返事を寄越す。
「俺が使えなくても、ナルセス、お前が使えるじゃないか」
「……意味がわからない」
「お前の術だったら、この小さな金属程度の障害、取り立てるほどでもないだろう。お前と行動する限りなら、問題じゃない」
 さらりと吐かれた言葉に、返事に窮した。こういうことをなんでもないように言ってのけるのがこの男の油断ならないところだ。意識してかしないでか、否定させない言い回しを選ぶ。それを改めて実感したナルセスは、わけもなく苦々しい心持ちになる。
「阻害が、なくなるわけじゃないぞ」
「わかっている」
 また、生返事。完成した槍を振り回すネーベルスタンは、ナルセスの複雑な心情に全く勘づくところがない。
 こいつ、こちらの気も知らないで。その態度に苛立って、聞いているのかと声を荒げようとした時だった。
「御免ください」
 第三者の呼びかけで、二人は顔を上げた。庭先に見慣れない男が立っている。
「なにか」
 すう、と顔を引き締めたネーベルスタンが真っ先に動いて応対する。来訪者に対してはこれだから、ますます苛立ちが積もる。端から動く気がなかったナルセスはびいんと弦を弾いた。
「こちらのお宅の方ですか?」
「ええ。何の用で」
 わざとらしく刺々しい物言いを背後で聞いて、剣呑に目を細めるさまが容易に想像できた。威嚇をしている。対する若い男は明らかに萎縮した。
「ああその、自分は自警団の者です。近頃、付近でモンスターの被害が出ていまして、それについて少し」
「モンスターの被害? こんな町中で、ですか」
 自警団と聞いてネーベルスタンの態度が軟化する。と同時に視線を投げられ、ナルセスは腰を上げた。これは、聞く必要があるかもしれない。


「甲虫、だそうです」
 今しがた受け取った紙をテーブルに置きネーベルスタンは腕を組んだ。
「グリューゲルとシャルンホルストの中間……よりは北側だね。街道沿いの木立の辺り」
 指を指して確認しつつ、シルマールは険しい表情を露にした。紙面上の簡易な地図には赤のインクでばつ印が書かれている。
「はい。かなり硬い甲殻に巨大な角を持っていて、おまけにすばしっこい。それで手に負えないと」
 被害はこの二週間で四件、負傷者が八人に死者が三人。道端に男の亡骸が発見されたのが最初だった。野盗の少ない街道ではあるが、旅人が一人でいたところを狙われるのは珍しくない。ところが、男のものと思わしき金に加え、荷すら荒らされた形跡がなく、さらに、よく見るとその肉体は、はらわたがごっそりなくなっていた。人間の所行にしては異常だと囁いていた時に、ほとんど同じ場所から報告が舞い込んだ。次の被害は行商人の一団だった。荷馬車の後ろについていた用心棒の一人が、木陰から飛び出したモンスターに襲われ、商団はわけもわからず逃げ出したという。それから立て続けにもう一件、これも二人組の商人だったが、身軽だったために川に飛び込んで難を逃れた。最後の一件は自警団が討伐に行ったもので、その内の一人が、角に刺し貫かれて命を落としたという。
「この辺りにそんなモンスターが生息しているなんて、聞いたことがありません」
 シルマールの言は、姿形だけではなく、その生態をも指していた。整備が成され完全に人間の領域となっている街道にモンスターが現れ、人間を襲う事例は初めて耳にする。
「突然変異でしょう。稀ですが、こういったケースは覚えがあります」
 ヴィジランツとして、モンスターとの野戦を多く経験しているナルセスの弁には説得力があった。なるほどとうなずいて、シルマールは腕を組む。
「とりあえず、当面は陸路が使えないと思った方がいいでしょう」
「ええ。……面倒な」
 不機嫌な声音を隠そうともしないナルセスは今にも舌打ちをしそうだった。その態度に、ネーベルスタンの眉間に一本皺が入る。
「川を下れば良いだろう」
「歩けば半日で着くところを、わざわざ船で?」
「片付くまでは、そういうことになるな」
「それが面倒だと言っている。だいたい自警団は何をもたもたしているんだ」
「お前……死者が出てるんだ、その言い方は」
「それが仕事だろう。文句くらい言わせろ」
 いつものように、二人の間に険悪な空気が漂い始める。端から見ていたシルマールは、まあ毎度飽きないことだと思いつつ、わざとらしく「それじゃあ」と声をあげた。
「せっかくです、二人で様子を見てきなさい」
 聞き返す声が揃ったのは言うまでもない。



 そこまで言うのなら自分達で行けばいい。死者が出ている以上、及び腰になっているのは確かでしょう。だからこそ早く収束しなければいけないはずなんだけれどね。それに、万が一航路まで使えなくなったら、我々の生活に支障が出ます。物資はシャルンホルストから届けられるものがほとんどですから。ああ、なにも、仕留めてこいと言っているわけではないよ。ある程度痛めつけたら、後は自警団に任せばいいんです。
 修行の一環としては、丁度いいでしょう?

 にこやかにそう言い切った師の姿を思い出して、ネーベルスタンは息をついた。
「あの人は時々、突拍子もないことを言い出すと思う」
「今更」
 ふんと鼻を鳴らしたナルセスも、否定をしないところ、概ね同意だった。断る理由はなかったが、返事の有無を問わない笑顔の迫力に押された。口を挟む隙もなく、あれよあれよと話が進められ、そうして二人はそれぞれの得物を携え街道を歩くこととなった。ちなみに、言い出した本人は手紙の束を指して「これを片づけるので」と言ったので、屋敷に残っている。彼を先生と仰ぐ二人は、それに反論することはできなかった。
 それよりも、ナルセスが気がかりとしたのは、ネーベルスタンの手にあるのが、件の鉄槍だということだった。
 本当にそれを使うのか。使えるのだから使うんだ。そんなやりとりを何度も繰り返して、結局ナルセスが折れた。だが当然、不満が胸中を占めている。遊びに行くわけでもない。聞いた通りに手がつけられないほどのモンスターならば、不慣れな武器で挑むなんて綱渡りをする必要がどこにあろうか。
「ヘマをしたら迷わず見捨てる」
「そうしてくれ」
 間髪入れずにそう返されたのが、余計に気に食わなかった。

 グリューゲルを出て一時間ほど歩くと、緩やかな坂の下に木立が見えてくる。地図に印がなされていた場所だ。
 石畳を叩く足音は二つだけだった。見渡しても人影はない。元々、それほど人通りの多い道ではなかったが、それが顕著になったのは言うまでもない。
 一度目配せをして、二人は無言のまま薄暗い木々の中に足を向けた。半歩前に出たネーベルスタンが右側を注視して、ナルセスは逆方向に気を配る。慣れた構成で、落葉や枯れ枝が散乱する上を極力音をたてないよう忍ぶ。周辺に凶悪な生物が現れたせいか、鳥の声も聞こえないのが異様だ。気味の悪い林を黙々と進むうちに、不意にナルセスがネーベルスタンの肩を叩いた。振り向いて、顎で指された先に視線をやる。
 それが、件のモンスターだということはすぐにわかった。
 凝視しすぎるなよ、というナルセスの忠告は、こちらの存在に気づかれるのを危惧したことだろう。
 だが、何か様子がおかしい。痙攣しているかのように身体が不規則に揺れているし、足元の土が不自然にてらてらと輝いている。目を凝らしていたネーベルスタンは、はっと、虫が何をしているのか気がついた。そっと視線を外して思わず口元を塞ぐ。食事中のようだ。
「だから、あまり見るなと」
「……お前、よく平気だな」
「遠目で見ればどうということはない。この距離だから音も聞こえないしな」
 しれっとした呟きで、ネーベルスタンはさらに想像してしまう。肉を咬み千切り、咀嚼する嫌な音。それも踊り食いの。なんだか、胃の辺りがむかむかして気持ちが悪い。
「なに、こちらにとっては好都合だ」
 向こうは肉を喰らうのに夢中なのだから。そう付け足した途端、ますます顔を青くした男を見てナルセスは肩をすくめた。こいつ、偉丈夫のくせに精神は軟弱か。否、一人旅をしていたというし、人を相手に得物を振るうこともあったのだから、単に今は、気を緩めているのだろう。というか、スイッチが入っていないのか。
 苛立ちを込めてばしんと背中を叩きつける。恨めしそうな目とかち合い、もう一発、今度は脇腹に軽く裏拳をいれる。いい加減にしろときつく睨むと、さすがにばつが悪くなったのか、咳払いをした。それ一つで、纏うアニマが変わった。
「先に潰すのは、足だ」
 真っ当な意見にネーベルスタンも頷く。鋭い角と、頑丈な甲殻と、体に見合わない素早さ。最も用心するのは角だが、戦闘が長引く可能性を考えると一番に処理をするべきは、その動き。
「足元で術を発動させて焼く。それを確認したら」
「ああ、殻の隙間にこいつをねじ込んでやるさ」
 と、槍を持ち上げたネーベルスタンに、ナルセスは目をすがめて見せた。
「……期待はしない」
 冷淡な返事を寄越して身を翻す。二人はさらに足を進めた。ネーベルスタンは気づかれる間際まで近づき、ナルセスはそれより後方で身を潜める。一呼吸置いて、ナルセスは口元を掌で覆った。詠唱を始めた合図、もとい、癖だ。
 合致した視線はすぐに外れ、ネーベルスタンは獲物へ目を向けた。低く構えた背中を見やる。すぐさま駆け出せるよう、緊張した呼吸に合わせて、発動。
 巨虫の足元に赤い術陣が光った。瞬きの間に火柱が上がる。ほとんど同時にネーベルスタンが木陰から飛び出した。火柱が消えた瞬間に一撃を叩き込めばいい。
 捕らえた。
 二人共が確信した瞬間だった。男が足を止めた。ざざ、と木葉の上で靴底が滑る。遅れて槍が前に突き出される。呼吸が聞こえない。
「なにをして」
 荒げた声はみなまで届かなかった。
 突如、角の突端が差し向けられた。男は危うげに左手へ逸れ、体当たりを受け流す。火柱の影から飛び出したのは、間違いなく件の巨虫。外傷は、見当たらない。
 なぜ、と湧き上がった疑念を振り払い、ナルセスはすぐさま次の術に掛かった。樹のアニマで形作った棘が降り注ぐが、威力が足りず硬い殻に阻まれる。距離を詰めたネーベルスタンが槍を突き下ろしても、すんでのところで避けられる。ナルセスは舌打ちを堪えられなかった。
「アニマの流れを読んだのか……!」
 術が発動するほんの間際の、変容するアニマを感じ取ったらしい。当たったことには当たった。だが目的は果たせていない。飛び退いたその動きは噂にたぐわず素早かった。足を狙うのに同じ戦法はもう使えない。
 どうすれば、と思考を遮る声が響いた。
「左からの反応は鈍い、充分だ!」
 視線を外さず距離を取るネーベルスタンに退く気配はなかった。不意討ちに失敗したなら正面から叩くまでだと、上段に構えて威嚇する姿が語る。ああ、この男はそういう人間だった。ナルセスはすぐさま補助術を唱える。立て続けの吟詠は全て対峙する背中へ。
 ナルセスは、自分がサポートに徹するしかないことを確信した。なにより術の効きが悪い。先程の火力なら掠めた箇所が消し炭になってもおかしくないのが、甲殻が黒ずんだだけで済み、続いて放った術は命中したにも関わらず、辛うじて足止めになった程度だった。
「やつめ。体内に鋼鉄でも仕込んでいるのか」
 冗談めかした声音に顔をあげた。全身のアニマを尖らせてはいるが、ネーベルスタンには余裕が見て取れた。焦りを収めてナルセスもそれに乗ってやる。
「なるほど、通りで手応えがない」
「ナルセス」
「なんだ」
「術はすべて任せるぞ」
 その、言わんとしていることを察して、ナルセスは肩をすくめた。
「いつものことだろう、向こう見ず」
 同じことを考えていた。言わないけれど、さすがにもうお互いの思考パターンが読める。視線が交差した一瞬、むっとしたのは、こちらの言い方が気に食わなかったに違いない。
 ネーベルスタンが敵に向き直ったのを確認してナルセスは術を唱える。己の術が、瞳の光を燃やしたのを見た。途端、男の全身から発せられるアニマが頬を打つ。抜き身の刃のように、むき出しの、鋭いアニマ。理性を剥いだ姿に背筋が粟立った。まっすぐで、折れることを知らない。良いアニマだ。
 飛び出したネーベルスタンは明らかに速度も力も上がっている。狂戦士と化したネーベルスタンは一歩たりとも退こうとせず、猛る闘志のままに攻撃を繰り返す。一見無謀にも思える突進の連続は、攻撃の隙を与えないための策でもあった。それを援護するべく、ナルセスは補助術を重ねがけして、誘導の為に火術を放つ。狙い通り動いた巨虫に振り払いが襲った。角の中ほどに命中した鈍い音。
 その攻撃を見て、ナルセスはネーベルスタンの狙いがその鋭い角であることを確信した。もとより倒すことを目的にしていなかったうえに、二人では分が悪いと最初の一撃で理解した。なにより、この調子で戦っていてはネーベルスタンの体力も、ナルセスの術力も持たない。だが、下手に退いたところで追撃を免れられるとは思えない。それで、狙いを定めた。
 その思惑に応えるべくナルセスも唱える術を変える。誘導ではなく、陽動と足止めのため。効果が薄いと知りながら、瞬時に形成した光の刃を撃ち、続けて脳天に雷撃を落とす。威力の強い術が直撃すればさすがに足止め程度になるだろうと踏んだのは正解だった。刹那の隙、先ほどと同じ場所に一撃を叩き込む。追撃を逃れようと反転したところへ、数に任せて矢を浴びせ、そこへ再び鋼鉄の斬撃を入れる。槍を振り下ろした肩が大きく上下した。吼える息づかいが聞こえるようだった。一度、後退させなければ。没入している頭に届くよう、声の限りに叫ぶ。
「向こう見ずも大概にしろよ!」
 耳に入ったかはわからない。だが、信じて弓を引き絞った。鏃に業火を纏わせて矢を放ちながら素早く詠唱を済ませ、もう一度雷撃を見舞う。三度の隙。一蹴りで距離を取ったネーベルスタンが、ふと動きを緩めた。やにわに、足元をすくい上げるように槍を一回転させる。直後にべちゃりと嫌な音。音の正体を追うと、虫の大きな目に肉片が張りついているのが目についた。先程虫が喰らっていた小動物のたぐいか、とナルセスは判断した。肉切れを穂先に引っかけて投げつけたらしい。青ざめていたにしては、自分もたいがいえぐいことをしている。
「あとで祈りでも捧げておくんだな」
 怯んだ隙に背後まで後退したネーベルスタンに水術を施す。渋面を作ったのは見えたが、軽口の返事は聞けず仕舞いだった。耳障りな鳴き声。目眩ましの不意討ちをもろに喰らった巨虫が、死肉を振るい落として二本足で立ち上がった。突進を警戒し、すぐさま身構える。が、突き刺さったのは、ガラスを擦ったような鳴き声だった。目の前が点滅して頭が回る。くずおれそうになるのを堪えるのが精一杯だった。鳴き声が消えても耳鳴りは続く。悪寒と共にアニマが迫る。それを感じながら動くことができない。出掛けに聞いた死者の数が、頭をよぎった。
「ナルセス……っ!」
 叫び声がして、右腕が強く引き寄せられた。為すすべもなく体が後方に傾き、そのまま投げ飛ばされる。目眩のなかで、ナルセスはかろうじて受け身を取った。覚悟していた痛みはない。近いところで重い打撃音がする。不快なアニマが遠ざかるのを感じて、ああ、ネーベルスタンが一撃を喰らわせたのだと思い為す。ひとまず、危機は脱した。
 平衡感覚を取り戻そうと術を唱えかけて、やめる。術力に余裕がなかった。努めて呼吸を整え、自然治癒で回復を待つ。
「しっかりしろ」
 声をかけられて傍らを見上げると、警戒を解かないままのネーベルスタンが膝をついていた。見据えた先には虫が転がっているのだろう。硬い表情だが、瞳の力強さは衰えていなかった。
「……余裕そうだな」
 くい、と口端をつり上げて不敵な笑みを作る。ネーベルスタンに余裕が見えるのは直前の術のためだろう。こちらは満身創痍だから、自虐的な台詞だという自覚はあった。
「お前のおかげでな」
 返事は、淡々と、穏やかだった。唐突に凪いだ波のように静けさを湛えた声音。思いも寄らない調子に閉口している間に、ネーベルスタンは素早く立ち上がった。男のアニマが再び緊張の糸を張る。見やると、緩慢な動きでモンスターが近づいていた。
「あと少し、頼むぞ」
 そう言って差し出された手を迷わず取って、ナルセスは立ち上がった。
「私に手を貸す暇があったら、さっさとあれを仕留めろ」
「ああ。上から折る」
「わかっているから一々言うな」
 不遜な返事に肩を竦めて、ネーベルスタンは駆け出した。こちらへ狙いを定める鋭い角へ真っ直ぐに向かう。巨虫が突進しようと身構えた瞬間、その視界を舞い散る木葉が遮った。それを予測していたネーベルスタンは背後へ回り、思いきり跳躍した。
 狙うは前面へ突き出した角。倒しきれないのなら凶器を壊せばいい。切っ先を真下に向けて槍を突き下ろす。落下の衝撃と共に、根元近くに突き立てられた穂先。虫の頭上に着地したネーベルスタンは、掌に伝わった振動で角が折れたのを確信した。追い討ちをかけるように、虫の周囲では木葉が大きな円を描き、炎と樹の複合術が完成されようとしている。
 飛び退こうとしたネーベルスタンは、しかし、ぴきり、と小さな音を聞いて刺先を見下ろした。途端、耳をつんざく金属音が響いた。

 詠唱を終えたナルセスの唇が震える。何が起きたのかと、一瞬、頭が真っ白になった。
 目についたのは、飛び散る鮮血だった。片手で顔を覆った姿がぐらりと傾く。刃を失った得物を手にしたまま、甲殻の上から転がり落ちた。男は地に伏したまま動かない。その体のすぐそばには赤く変色した数多の木葉。円形を描きながら一枚一枚発火していく。威力こそ高くないが、あの状態で巻き込まれたらただでは済まない。完成した術は、止められない。
「避けろネーベルスタン!」
 口をついて出た怒号に、長い髪が翻った。地鳴りと共に炎の渦が巻き上がる。その奥に立ち上がったネーベルスタンの姿を認めて、ナルセスは肩を下ろした。が、顔の左半分を押さえている指の間から血が滴っているのに気付いて眉間に皺が寄った。
「悪い。折れた刃が飛んできて切った」
「それくらい、見ればわかる」
「ああうん、そうだな。とりあえず逃げるぞ」
「おい、その傷は……」
「あとで良い。あいつを倒したわけじゃないんだ」
 そう言った途端、耳障りな鳴き声が轟いた。二人同時に振り向く。霧散した火柱の中から現れた巨虫を相手にできる力は、こちらにはもうない。
「しつっ…こい!」
 苛立ったように叫んだネーベルスタンが振りかぶって槍を飛ばす。折れた角の際に命中したのに気がつかず、空になった手でナルセスの腕を強く引き寄せた。真正面から見据えた顔。片方だけの瞳が、ナルセスを射抜く。
「いいから、さっさと行くぞ!」
 半ば叱りつけるような叫びに引き摺られ、走り出す。無理矢理足を動かすナルセスは、どうしても、その横顔から目が離せなかった。
 顔の左側を覆っているといっても、目の付近を押さえているのは明らかだ。刃で切ったとのことだが具体的にはどこを切ったのだろう。瞼だけだったにしても、それにしては出血が多い。そもそも、折れた刃が飛んでくるスピードなどかなり速いに違いない。本当にそれを避けることができたのか。もしかしたら、切ったのではなく、刺さったのでは。
 ぐるぐると、思考が回る。答えは頭のなかにあるはずがない。けれど考えずにはいられない。不毛だ、不毛だと思いつつ。
 半歩前を走る男の横顔は、血の滴る手が邪魔で見えない。



 木立を抜けて日が差す街道に出たところで、ようやく二人は足を止めた。
「追ってきて、ないな」
 振り返ったことで残り半分の表情が見えた。痛みに歪んでいるわけでもなく、追っ手を警戒しているわけでもなく、まさしくほっと一息ついた、という表情だった。
 それを認めたナルセスの心は唐突に波立った。
「ひとまず安心だな」
 視線が向いた瞬間、ナルセスは顔を覆う手首を強く引っ張った。手に留められていた滴が石畳にぱたり、ぱたりと零れる。露になった半分の顔はべったりと赤く濡れていた。
 波立った心は、次に、ふつふつと煮え始めた。
「これの、どこが、安心だと」
 唸る声とともに睨み上げる。握る力が知らずに強くなって、同時にネーベルスタンの口端が引き攣った。
「見た目ほど酷い傷じゃ、ないぞ」
「見えないくせに何を言う」
「いや、ええと、そこまで痛くはないからな。それより血で汚れるから」
 手を離した方がいい、という懇願に近い訴えを流して、さらに強く引っ張る。今度は、腕ごとネーベルスタンの顔がぐっと近づいた。反射的に反らそうとする頭をもう片方の手でがっしりと捕まえる。狼狽える表情は視界に入らない。ナルセスの目には血にまみれた顔しか映らなかった。
 間近で見た傷は、確かに酷くはなかった。本当に切っただけだったし、瞼の傷より眉から額にかけての方が深い。大袈裟に出血しているだけのようだった。
 それを確認してようやくナルセスは両手を離した。手首を掴んでいた右指の上を血液が一筋、横断している。ちらりと見やって、それからもう一度ネーベルスタンを見つめた。
「じっとしていろ。応急処置だけする」
「応急処置って、でもお前は」
「ついでに少し黙れ」
 有無を許さない声音で、ネーベルスタンの言葉を切り捨てた。その後に続く言葉の見当はつかないが、それがなんであれ、聞き入れる気はなかった。
 汚れていない左手をかざして、いまだ血が滴る傷を修復するのに集中する。この程度で死ぬことはないし、シルマールの邸宅までそう遠くもない。ただ、ナルセスが、気になって仕方がなかった。
 ほんの数十秒の治癒を終えて、今度こそナルセスは手を下ろした。相変わらず頬の生々しい血痕は目に毒だが、その上に新しい血が伝うことはない。
 それと一応、とナルセスはつけ足す。
「本当に目に問題がないか見たい」
 気を抜いていたらしいネーベルスタンはえっ、と顔を強張らせた。いかにも不服そうな表情だ。
「傷は今治しただろう」
「見える傷はな。だがそれが瞳に障害がない証拠にはならない。目を開けろ」
「お前、なんか、今日はやけに細かいことを気にするな……。でも、へたに動かしたら傷口が開く。心配してくれるのはありがたいが」
「違う、心配じゃない」
 思いも掛けず強い即答を受けて、ネーベルスタンは目を丸くした。じゃあ何なんだというもっともの質問には沈黙で返す。
 あきれたような嘆息を聞きながら、ナルセスは喉までせりあがった言葉を飲み込んだ。全く心配していないと言ったら嘘だ。それ以上に大きな考えが別にあるだけで。心配なんてお優しい感情とは正反対の、ずいぶんと自己中心的な考え。
 無言を答える気がないものだと取って、「まあ無理には聞かないが」とネーベルスタンは顔をそらす。
「もう、いいだろう」
 再び左半分の顔を覆って歩き出した。流血を止めたのに手で隠したのは血痕のためだろう。水を操って洗い流すこともできるが、今はそのための術力すらない。
 ぐっと重くなった足を踏み出す。足だけではなく全身が重い。ひどい、倦怠感。
 無茶をしたのは、わかっていた。



 玄関で二人を迎えたシルマールは目を丸くした。
「こっぴどくやられたね」
「やられましたけど、その分きっちりやり返しました」
 憮然と言い放ったネーベルスタンの口振りに、シルマールはなにかしらの成果を上げたことを察する。
「では、やり返した話はあとで聞かせてもらいますね。まずは顔を洗ってきなさい」
「はい」
 ネーベルスタンは屋敷に入らず、踵を返して庭に向かった。扉がしっかり閉じたのを確認してから、シルマールはナルセスをじいっと観察する。
「お疲れさまでした。ナルセス君は怪我は……なさそうですね」
「はい。あれと同じではありませんから」
「でも、無茶をしたことに変わりはないようだ」
 微笑のまま指摘され、ナルセスはぐっと言葉を飲んだ。さすがに隠せるわけがない。シルマールはナルセスの消耗を見抜いていた。
「薬を用意するから、着替えたらキッチンにおいで」
「大袈裟です」
「あなたが思っているよりひどい顔をしているんだよ」
 去り際にぴしゃりと言いつけられる。ナルセスは思わず、そんなにひどいのだろうかと額に手を当てた。

 限度を越えた術の発動は命を削る。それは世界中の誰もが知っていることで、冒険者ならばなおさらだった。
 そしてナルセスは、その限度を越えんとした。これ以上は危険だと、限界だと頭はわかっていたし、体もそう訴えていた。だとしても、今日は悠長なことは言っていられなかった。思いもよらない強敵と、術の行使の全任。そもそもの消耗の要因はそこにある。
 だが、それよりも、最後の治癒術がいけなかった。目一杯に術力を消費した後だっただけが理由ではない。あの時、あの顔の怪我を治そうとした時は、気が立っていて、冷静でなくて。それで、めちゃくちゃなアニマの使い方をした。術を覚えたてのガキでもあるまい、そんな使い方しかできなかったのは、その理由は。
 その先を考えまいとして、ナルセスは止まっていた手を忙しく動かす。着替えてから、キッチンへ。シルマールを待たせていることだろう。早く行かなければ。と、ノブに手を伸ばしかけた時だった。階段を踏む足音を拾った。
 考えたくなかったものが、向こうからやってきた。扉の前で立ち尽くす。急ぎ始めた矢先のことだが、動くことはできなかった。顔を合わせたくない。傷を負った顔を見たくなかったし、まとまらない思考に揺蕩する顔を見せたくなかった。知らぬ間に視線が足元に落ちていた。
 近づいてきた足音が、扉を一枚隔てた向こう側を通り過ぎていく。隣室の扉が開かれて、閉まって、そこでナルセスは音を追いかけるのをやめた。一度、深く息を吐く。それからようやく、部屋を出た。

 シルマールが煎じる薬湯は、いつもラベンダーの香りがする。
「薬にしては、おいしいですよね」
「紅茶として飲めないかと模索した結果ですね。結局、それはできなかったけれど」
「ああ……滅茶苦茶なブレンドを飲まされたことがありましたね、一度」
「そうでしたっけ?」
 とぼけてみせたシルマールと笑みを交わし、二杯目を淹れて息をつく。心なしか気だるさが失せたように感じた。術の研究ならば引けを取るまいと思っているが、これに関しては舌を巻くしかない。
「ネーベルスタン君から話は聞きました。おそらくもう犠牲者は出ないでしょうし、自警団へも後で知らせておきます。だから今日はゆっくり休んで、と言いたいところなんだけど、一つお願いが……」
 そこで、不意にホールに繋がる扉が開いた。シルマールは言い止し、ナルセスの後方に視線をやる。
「洗濯ですか」
「はい。先生はなにか洗うものは?」
「いえ、ありません」
「ナルセスはあるだろう。一緒にやるから持ってこい」
「ああ」
 短いやりとりの中で、ナルセスは結局振り返ることはなかった。
「顔の傷、綺麗に消えましたよ」
 声音に含みがある気がして、ナルセスはちらりとシルマールに視線をやった。その表情は読めない。再びカップに口をつける。
「ナルセス君のおかげでね。早い治療がなければ、どうなっていたかわからない」
「いえ……女でもあるまいし、残ったところでどうってことないでしょう」
「それにしては憔悴していたようだけど」
「あの程度の傷で?」
「そう。あの程度で、あなたが」
 師の言葉を認識して、ナルセスははっと顔を上げた。
「肉体的にも無茶をさせたし要らない心配までかけた、と反省していましたよ」
 シルマールはそれだけ言って、追求しようとはしない。ただナルセスは、この沈黙を前にすると、どうしても黙ってやり過ごすと言うことができないたちだった。ためらいがちに口を開く。
「両目が」カップの底を見つめるナルセスは、シルマールが湛えた微笑の変化に気づかない。「……両目で見えなくなるのは、困る、だろうと」
「そうですか」
「奴が執務にでも就くのなら別ですが」
 嗤って歪んだ口元のまま、カップをぐいと呷った。
「ごちそうさまでした。洗濯物、預けてきますから、先ほどのお願いはその後に」
 シルマールの返事を聞きながら、ナルセスは足早に自室へ戻る。わかりやすく、逃げている。そう受け取られても言い訳はできないさまだ。だがいつまでも逃げているわけにもいかないし、そのつもりもない。
 さきほど脱ぎ散らした服を取って踵を返す。
 こんなものは、さっさと片付けなければ。

 冗談めかしての発言にしても、ネーベルスタンが執政官を務める姿など想像がつかなかった。あの男は戦場で槍を振るう方が性に合っているだろうし、それが好ましい。
 そう思っているからこそ、ネーベルスタンが庭でせっせと洗濯をしている姿に、知らずに嘆息が漏れた。将来を約束されているであろう男が、こんなところで家事に勤しみ、しかもそれが馴染んでいるときた。今更だが改めると奇妙な光景だ。
 傍らの篭に衣類を放り込むとぱっと顔が上がった。二つの眼がしっかりとナルセスを捉える。そこに惨い傷はもうない。最初からなかったように、消えている。
 口を開きかけたネーベルスタンよりも先に、咄嗟に「それ」と紐に掛かったシャツを指す。こちらも血濡れになっていた痕跡はない。
「落ちたのか」
「そっちはなんとか。上着はどうにもならん」
 水を張ったたらいの中からジャケットが出てくる。濃い色でもはっきりとわかるほど、袖口が赤黒く色づいていた。
「お前は心配してないって言ったが、これだけ血が出ていたら驚きはするよなあ」
 水気を絞って叩きながらぼやく。ジャケットを乱雑に洗濯紐に掛けて、ネーベルスタンは振り向いた。
「なあナルセス、もうあんなことはするな」
 静かだが、硬い声。何を指しているのかは言うまでもなかった。
「確かに術は任せると言った。でも無理に傷を治す必要はなかった。俺だって気付いていたさ、あれだけ術を連発して、お前は気付かなかっただろうが、青い顔をしていれば。あの時、治癒術を使うほどの余裕なんかなかっただろう。まして、あんな、致命傷でもない、放っておいてよかったものを」
 相貌が苦しげに歪んだのは一瞬だった。
「何がお前をそこまでさせる」
 沈黙を持って返す。数時間前と同じ、だが今度は、問いかけは切り上げられなかった。
「矜持か」
 ナルセスは肩の力を抜いて深呼吸をした。
 ネーベルスタンが問うているのは、己が責を果たさんとするこころざしのことだろう。それは違う、と断言できる。ナルセスは自分のことを思っていた。
 例えば傷が、瞼を縦断していなければ、言うように放っておいただろう。あるいは切っ先が、頭や胸を刺していたら、もっと必死に、慎重に術を施しただろう。この仮定にはぞっとする。しかし今は瞳だ。瞳が傷ついて、見えなくなることが最も恐ろしかった。
 ネーベルスタンの片目がナルセスを射抜いた時、ただただ、嫌だと思った。その双つの眸でなくては。漠然と、足りないのだと。

 筋道立った理由もないそれを正直に告げるつもりはない。同時に、真摯な男を前に嘘はつけない。だから、真意が伝わらないであろう言葉を選んだ。
「矜持ではない。だが、意地ではある」
 我ながら、曖昧な、言い訳じみた言葉だと思う。この答えに満足できるはずもない、さらに言い募るだろう。だが予想を裏切って、ネーベルスタンは「わかった」と泰然として言い放った。
「だったら俺は、お前が意地にならずに済むよう努めよう」
 もう、短い付き合いとは言えない。それでもこの男の言動は、時々読めない。
「……具体的には」
「今回のことに関しては、俺が不慣れな武器を使ったのが悪かった。お前が止めたにも関わらず。もう無茶はしない。すまない」
「謝罪は受け取るが、お前が無茶ばかりするのは今に始まったことじゃないな。その宣言は今更だ」
「それで、ナルセスが意地っ張りなのも今更だな」
「なんだと」
「でもその意地は俺の……俺と先生の前だけにしてくれ」
 じいっと見つめる顔は至極真面目で、ナルセスは思わず吹き出した。ただし、それは嘲笑。
「お前は無茶もそうだが、自惚れもすぎる」
 わざとらしく癇に触れる発言だった。ネーベルスタンの泰然は一気に崩れ、「はあ?」と憤りを露わにする。が、喚きはじめるかと思われたところで、強い風が吹いた。ばたばたとジャケットがはためき、慌てて押さえる。
「飛ばすなよ。お前のがどうなろうと構わんが、私のは飛ばすな」
「……いっそ清々しいなあ」
 気勢を削がれ、ネーベルスタンは呆れるしかない。渋い顔をしてジャケットを紐に通そうとした時だった。再びの突風。荒れ狂うほどの風に、二人はたまらず目を細める。
 だから、ナルセスは気付かなかった。自分が風下に立っていたこと。ジャケットがネーベルスタンの指をすり抜けたこと。それがまっすぐこちらに飛ばされたこと。
 湿った布が丁度、顔面に直撃した。
「あ、っと、ナルセス……」
 風でまとわりつくジャケットを引き剥がすと、頬をひきつらせたネーベルスタンと目が合った。中途半端に腕を伸ばした格好で固まっている。だが、その手は掴み取れなかった。
 長いため息を一つ。それから、一呼吸置いて。
「言ったそばから!!」

 最初からなかったように、傷は消えた。同じように、胸の揺らぎも徐々に落ち着き、消えるだろう。
 ゆっくりと、元に戻っていく。
 そう信じて疑わなかった。



 ガタガタと窓が揺れる。風が吹き始めているのを見てから、シルマールは手紙を差し出した。
 ヤーデ伯トマスへの手紙。それは、友人としての頼みでもあり、仕事の依頼でもあった。
「外部には漏らしたくない書状です。本来なら私が足を運ぶべきですが、それは目立つ。家柄を考慮するとネーベルスタン君には頼めない。ですから、信頼の置けるあなたに、これを託します」
「わかりました。引き受けましょう」
 即答すると、シルマールは気が抜けたようにきょとんとした。それで、冴えていた空気が一気に緩んだ。
「……ナルセス君は、私を信頼しすぎている節がありませんか」
 依頼内容には続きがあるし、まだ報酬にも触れていないのに。ぶつぶつと呟くシルマールに、ナルセスはしれっと「その言葉、そっくりそのまま返しますよ」と言ってやった。他に適任がいないとしても、そんな手紙を、まして重要なものだと明言して渡すなんて。自分がもし、腹の底で謀を企てていたらまんまとはめられていただろうに。
 指摘を受けてシルマールはううむと唸る。
「そんなことを言われても、ナルセス君が私のことをものすごーく好いてくれているのは知っていたし、今までだって利害だけで行動を起こしたことなんてなかったし、それも報酬の多少に限らなかったし、そもそもこうして足繁く私の元にやってくるのもあなたが私自身に興味が」
「あの、先生、その話、聞かないといけませんか?」
「やめますか?」
「やめましょう」
 ほとほと参ったナルセスが顔を覆って降参する。
 再び窓が音を立てる。外を見やってシルマールは唸った。
「……嵐が近づいていますね。急ぎの用件なので、明日には発ってもらいたいのですが」
「構いませんよ」
「ではお願いします。届けさえすれば帰りは遅くなっても問題ありません。無理せずに帰ってきてください」

 と、シルマール宅で依頼を受けたのが四日前だった。
 予定よりも幾日か縮まった帰還について、別段思うことはなかった。平穏で、退屈な町を一日で出ることができる点は喜ばしかったが、早く戻る必要性も感じられなかったのだ。
 そして帰ってきたナルセスは、師の邸宅を前にしてぎょっとした。これはただごとではない。そう察して、慌ただしく駆け込み玄関で声を上げる。
「先生? シルマール先生?」
「ナルセス君?!」
 逸る気持ちを抑えて歩き出したと同時に、廊下の扉が勢いよく開いた。あわやぶつかる、というところで仰け反り、顔を合わせる。飛び出してきたのは、間違いなく、ナルセスが探していたシルマールだった。
「ああ、ナルセス君……その、おかえりなさい」
「た、ただいま戻りました」
 しどろもどろの挨拶を交わす。見たところ、妙に慌てて出てきたところを除けば、シルマールに異変はなかった。だが、異変がないことこそ、おかしい。表があの状態でなにもないはずがない。それに、と階上をちらりと見上げる。あの男はどうした。
 猛烈な違和感を持て余し、困惑したまま歯切れ悪く尋ねる。
「あの、先生。なんというか……大丈夫ですか?」
「なにがです?」
 その返答に、ナルセスははっきりと反感を抱いた。心配から不審へ、自分の表情が一気に塗り変わったのを自覚する。極めつけに、シルマールが「しまった」と言わんばかりに顔を強ばらせた。決まりだ。シルマールは、なにかを隠して、誤魔化そうとしていた。
 息を長く吐いていったん思考を断つ。話は、仕事を片付けてからだ。
「手紙の返事を預かってきました。まず、その報告をさせてください」
「そう、ですね。その前に、部屋に荷物を置いてきたらどうかな」
「いえ、先に話がしたいので」
「……わかりました」



「こちらの手紙に目を通した途端、顔色が変わりましてね。今日中に書くから待っていろと部屋に通されました。使いのヴィジランツには厚遇だとも感じましたが、もてなしはそのまま受けましたよ。お茶と一緒に出てきた生の杏も美味しかったです。それで、この手紙、すぐに受け取れたおかげで、帰りは湾を横断する渡し船に間に合いました」
「……なるほど、それでこんなに早かったわけか」
「嵐になりそうでしたからね。私もこんなに早くなる予定はありませんでした」
 淡々と報告を終え、二人は微笑を浮かべたまま睨み合う。しかし、纏う雰囲気はまるで違った。
「それじゃあ、他の話をしようか」とシルマールは疲労が見え隠れする声音で言い、「ええ、そうさせていただきましょう」とナルセスは憤りをちらつかせながら、本題に入る。
「率直に尋ねます。家の前のアニマは何なんです?」
 気付かないはずがなかった。周囲のアニマがひどく乱れていることを。敏感な者でなくても、どこか不穏な気配だと感じるだろう。ナルセスはその刺々しく荒んだアニマの残滓を、屋敷を目にするよりも先に感じ取ったのだ。
「大乱闘でも起こしたようにしか思えませんね」
「あはは、大正解です」
 乾いた笑い声をあげたシルマールの言葉に驚くことはなかった。冗談で言ったのではなく、本気でそう見立てていた。さらに続ける。
「それで、どこの不届き者がネーベルスタンとやり合ったんですか」
「ああ、そこまでわかりますか」
「ここまでしかわかりませんよ」
 帰ってきてシルマールが出迎えた点もおかしいと思っていた。来客の応対は常にネーベルスタンがするのをナルセスは知っている。その上、あの男は特段用がなくとも必ず律儀に顔を覗かせるのに、今日は一度も姿を見せていない。ナルセスにとってはその行動は少々、かなり、煩わしいものであったが。
 そうでないのは、不在時か就寝時か。まだ日が出ている内に眠ることはないから不在なのだろうかとも考えたが、注意深く探ると、確かにネーベルスタンのアニマは彼の自室に感じられる。ならばなぜ、出てこないのか。考えうる可能性は限られる。
「怪我をしたわけじゃないよ。休ませないといけないだけで」
「……なにも言っていません」
「顔に出ていました」
 一体どんな顔をしていたというのか。反論を飲み込む。咳払いをして脱線しかけた話題を戻す。
「あの男、またやらかしたんですか」
「またって……そうですねえ、なんと言ったらいいかな。無理でも無茶でもないけど、ちょっと、大暴れをして……そうせざるを得ない状況になってしまったんです。それで、今は部屋で眠ってもらっています」
 ずいぶんと曖昧な言い方をする。だが言わんとすることは察した。過日の怪我のすぐ後だが、今回はネーベルスタンに非はないということだろう。
 追及したい衝動を抑え、「誰が来たのですか」と、ことの核心に迫る。シルマールは考え込むように顎に手をやった。険が見え隠れるする表情は、かわそうとしているように見えた。この期に及んでそれはないでしょう、ときつくにらむ。そうしてようやく、シルマールはナルセスに向き直った。
「近郊の領主が絡んでいるということは伝えておきます。先日、手紙の代筆をしてもらったでしょう。あれよりも、もっとたちの悪い相手もいるんです。その誘いを断り続けたら面倒なことになって……体裁や派閥がどうこうと、先方にも事情があるようですが、私には関係ありませんから」
 その結果の強硬手段を、ネーベルスタンが迎え撃った。
「結局、そうも言っていられない状況になって。考えあぐねたところでネーベルスタン君が、自分の名前を使って対処すると提案を」
「名前……それは、やつの家の?」
「それとワイド込みです。親ナ派の領主にワイド関係者が害されたらどうなるか、と逆に脅しをかけました。正確には、私はどちらでもないから半分は嘘ですが、相手はワイドの名前が出るだけで嫌がるものだから」
 そういうことなら。
「私はこの件に口を出さない方がいいですね」
「そうしてくれるとありがたいです」
 ナルセスにこの件が全く知らされていなかったのも、単なる術士同士のいざこざではなかったからだった。一介のヴィジランツが首を突っ込める問題ではない。
「事情は汲みます。ですが、一時的とはいえ私もここで厄介になっている身です。面倒事を抱えているからしばらくは距離を取るようにくらい言ってくれてもいいでしょう」
「んん……それは、そうなんですけど」
「私をこのタイミングでヤーデにやったのもこのことが理由ですよね?」
「ええ、まあ、あなたに使者を頼みたかったのは本当のことですが」
「帰ってきた時に鉢合わせたら、さすがに助太刀していましたよ」
「その通り、ですね。返す言葉もありません」
 しおしおと小さくなるシルマールを見ていると、こちらが悪い気がしてくる。それに、ナルセスにとってはある種の壁であり、常に大きな存在である師がしょぼくれるところはあまり見たくない。
「一応言っておきますけど、私は先生の気遣いを無為にしたくありません。だから最低限のことは話してください。私は私のせいで先生の面倒を増やしたくない。先生の描いたシナリオに私が不要ならそうと言ってください。でなければ首を突っ込んでしまいます」
 黙って頷くだけのシルマールに、とうとう痺れを切らした。たぶん、一番伝えたいことが伝わっていない。
「私は今だって一番に、あなたのことを心配しているんです」
 普段なら口にするのを躊躇う、率直な言い方。言ったナルセス自身は気恥ずかしくてすぐに後悔をしたし、言われたシルマールは気落ちした様子はどこへやら、目を丸くした。
「ナルセス君は本当に、優しい人だ」
 その一言は、シルマールが操るにはあまりにも簡素で、それが生々しかった。こう見えて、この人は感情の発露が少ないから。顔を上げた時には、花開いたようにいつもの穏やかさを取り戻していた。
「……話を、逸らさないでください」
「いや、そういうつもりではないんだけど。ただ、お互い様だなと」
「お互い様?」
「ああ……まあとにかく、八割方ケリがついたようなものだから、もう大丈夫だよ。ありがとう、心配をしてくれて」
 にこにこと微笑むシルマールが、それは時折見せる愛想笑いではなく、本当に心の底から喜んでいるのがわかる。その柔らかいアニマが、ナルセスをつんつんと刺す。このむず痒さは真っ向から対峙する敵意よりもずっとたちが悪い。どこか居心地が悪い気がして、仕方がない。
 話はついたし、これ以上言えることはない。速やかに席を立ったナルセスをシルマールが呼び止めた。
「部屋に戻るのなら、ついでにネーベルスタン君の様子を見てきてくれませんか。起きていたら、私が呼んでいたと伝えてください」
 名前が出たことではたと思い出す。そういえば、ネーベルスタンはどんな状態なのだろう。
「それから、話を聞いてあげてくださいね」
 口を出さないよう言われたのに、シルマールはそんなことを付け足した。
 果たして、部屋に荷物を放り投げたナルセスは、すぐに隣室の扉を開いた。ノックをしなかったのは、どうせ起きていないのだから必要ないだろう、という不躾な考えもあったが、シルマールが眠ってもらったと言ったからには、大方術を使ったのだろう。本人の了承を得たかはさておき、強制的に眠らされたなら数時間は目覚めない。
 突風で窓が音をたてた。雨戸は開いているが、カーテンが引かれた室内は薄暗い。案の定、部屋の主は眠っていた。
 扉の脇に立てかけてある槍に触れる。鳴りを潜めているが、確かに、大立ち回りの残滓があった。未だにくすぶる激闘の気配が指先を刺す。それを振るい払って、ナルセスはベッドに近づいた。そして横になる男の姿を認めて、シルマールの言葉の意味を理解した。
 腰まであった長い髪が、ばっさりと短くなっている。それも不揃いで、ずいぶん乱雑な切り口だった。切られたに違いない。他に目立った傷はないが、術で治したのだろうか。いずれにせよ、一体どんな戦い方をしたらこうなるのだろう。
 なにより気にかかるのは、アニマがはっきりしないことだ。
 ネーベルスタンが眠っているそのベッドの端に腰掛ける。揺れただろうがやはり目覚める気配はない。耳障りな風の音にも反応がないのだから、意識が相当に深く落ちているのだろう。
 ナルセスは眠る人間のアニマを観察したことなどないが、この違和感はそれが理由ではないと考えていた。稀薄と表現するにはしっくりこない。単によく見えないのだ。普段感じているアニマが、輪郭すらあやふやで、霧に包まれているようで。
 そもそも、だ。怪我がないのに休む必要がある状況が想定できない。傷を負わないまま長時間立ち回って、それで疲弊したとでもいうのだろうか。
 シルマールには、起きていたらと言われた。起こす必要はないが、せめて、触れて、アニマの片端さえ掴めれば、わかるかもしれない。そう思って手を伸ばした。
 たぶん自分は、この男のことも心配している。
 その手を、掴まれた。
 心臓が跳ねる。瞬きの間にネーベルスタンの腕が上がっていた。視線をずらすと、たった今まで閉ざされていた瞳が開いていた。突然の行動と、痛いほどの力に思わず腰を浮かせる。それでも平静を装って口を開く。
「なんだ、お前」
 起きていたのか、と、言おうとした言葉は音にならなかった。引っ込めようとした腕を逆に強く引き寄せられ、気がつくとベッドに倒れ込んでいた。
 はっとしたのは一瞬。反射的に身を捩り体を起こそうとして、信じられないような力が首に掛かった。再び押し倒され、頭がシーツに叩きつけられる。脳髄が揺れて視界が明滅する。為すすべもなく、動きを封じられた。
 首を捕らえた掌に、どれほどの力が掛かっているのか。自由が利く片手だけで引き剥がそうとしてもびくともしない。確実に気管を潰していた。
 ナルセスは必死に頭を回した。力で敵うわけがない。小細工が効く相手ではない。抵抗手段たり得るものはない。この野郎、と悪態をつきたくなる。お前が今首を絞めている男を、誰だと思っている!
「ね、べ」
 名前を呼ぼうと声を絞り出した直後、だが呼べず、硬直した。

 ネーベルスタンはナルセスを見ていた。見てはいたが、瞳に映るものはなにもなかった。薄暗がりの中、色のない瞳は深い地の底を覗き込んだように、果てがなかった。果てのない双眸にナルセスは囚われていた。
 ぞっとする。畏怖と昂揚が、ナルセスを襲った。

 掌が離れていく。視界から男の姿が消えた。ほんの、数秒の出来事だった。
 のしかかっていた重圧は失せ、拘束が解かれ、呼吸もできる。だが、ナルセスはすぐには動けなかった。耳の奥でどくどくと鼓動が響く。身体の芯が熱い。だというのに寒気がする。かたかたと指先が震えているのが、どうしてだかわからない。
 努めて呼吸を繰り返し、落ち着いてからようやく半身を起こす。ネーベルスタンはベッドの隅に腰掛けて項垂れていた。絞め殺さんとした陰はない。ずいぶんと参って、消沈している姿は、先程までとは別人だった。あまりのギャップに笑えてすらくる。
 胸に拳を押し当てて、深呼吸を一つ。
「目が覚めたか」
 あえて感情を殺してそう言うと、「すまない」とつぶやくように謝罪を述べた。が、その後に「間違えた」と付け足され、堪えきれずにはっと笑いが漏れた。なにが、間違えた、だ。
 その呆れ笑いに反応してか、ネーベルスタンが顔を向けた。瞳は、まだ、こちらを捉えていない。霞んだまま、夢と現実の境をさまよっているように見える。
「ひどい有様だな」
「……ああ、まったく」
 否定の言葉は返ってこなかった。思わず顔をしかめたナルセスにも気づかず、ネーベルスタンは俯いて目元を両手で覆った。ぽつりぽつりと語り始める。
「どうか、していた。貫いてやろうとして、留まる程度の理性はあったんだが。いや、どうだかな。危なかった。どうしても許せないことを……ああ、絶対に許せない。許せないから、それで、頭に血が上って」
 それは、先程のことを指しているのではない。ナルセスの推測でしかないが、件の襲撃のことだろう。だがそこまでだ。まるで要領を得ない独白だった。単に戦っただけではない、なにかがあった。大きく精神が乱れるようななにか。
 ナルセスは自身の首に触れた。手の感触が残って消えない。ネーベルスタンは間違えたと言った。絞め殺そうとしたのは、何だ。
 ネーベルスタンの隣に、少し間をあけて座り直す。居住まいを正して、話しかける。
「なにがあった」
 問いにネーベルスタンは首を横に振るばかりだった。だったら黙っていろよと突き放すこともできた。だが、これを放っておくことはできない。
「先生からある程度の事情は聞いている。お前の話も聞いてやれと」
「だったらなおさら、関わるな」
 その横顔は、知らない人間のようだった。精巧な石像が呻き声を発している。瞳は暗い。まだ、どこも見ていない。思い上がりだろうか、と、急にそんな不安が駆け上がって、しかし即座に踏み潰した。こんなセンチメンタル、くだらない。
 深く息を吐いてナルセスは一切を捨てた。苛立ちを、やる瀬なさを、無力感を、この感情を押し止める堰を。最後に残ったものが飾り気のない真実。
「ネーベルスタン、私を見ろ」
 ネーベルスタンが三度ナルセスを見た。ナルセスが言えるのはこの一言が全てだった。それ以上はいらない。瞳は聡いから、きっと見通す。数度瞬いたネーベルスタンの瞳に光が戻る。
 急に視線がぶつかって、ナルセスの胸がどきりと音を立てた。心臓が飛び出すかと思うほどの鼓動に息を飲む。それでも逸らさなかった。ナルセスをまっすぐに見据える目を、正面から受け止める。
 ネーベルスタンはぐっと眉を寄せて、目を伏せて、もう一度ナルセスを見た時には迷いのない顔つきになっていた。
「用心してくれ」
 もう呻くような声ではない。背筋を伸ばす。
「先方がお前の存在に言及した。金髪に弓を携えた男というとお前くらいだ。ただお前のことはほとんど知らなかったし、どう見ても苦し紛れの脅しだったからそう真剣に受け取らなくてもいいとは思う」
 つまり、シルマール邸に出入りする人物の中で、頻繁に見かけるのがナルセスだっただけだ。大方、人質か脅しの材料なんかにでも使おうとしたのだろう。
「そんなことで、頭に血が上って切られたか?」
 肩にかかる半端な髪を指ではねた。ネーベルスタンが不機嫌そうに眉をひそめる。
「いや、これは自分で」
「はあ?」
「相手の……傭兵だか私兵だか知らないが、私を伸した証拠を持ち帰るよう言われていたんだろうな。急所を狙うふりをして妙なところばかり斬ろうとするから、自分で髪を切って、首の代わりに持っていくかと言ってやった」
 呆れてため息が出た。長い髪は貴族ならば富の証で、将兵ならば強さを誇る。それを、そんな理由で。
「馬鹿か。お前のそれは財産だろうが」
「別に、また伸ばせばいい」
「どちらにせよ、冷静を欠いたのは違いないな」
 単純な罵り文句に嘲り。ナルセスがいつもの調子で投げつけた言葉を、しかしネーベルスタンはいつものように受け取りはしなかった。
「それに、そんなことじゃない」
 口をへの字に曲げて、拗ねた子供のように洩らす。ナルセスはネーベルスタンの言うそんなことがなにを指しているのか、最初の一瞬はわからなかった。頭の中で会話を遡って、それで気づく。
「おい、まさか私を庇ったりしてないだろうな」
「してない。ただのヴィジランツの命と先生の身が釣り合うと思ったかと笑い飛ばした」
 即答した内容に安堵の息を落とす。実際のところがどうであれ、相手方のカードになるわけにはいかない。ネーベルスタンは脅しが無意味だと突き返した。それは疑問の余地もない、当然の選択だとナルセスは思う。
 だったら、なぜ。不思議に思うナルセスの横で、ネーベルスタンがベッドに腰掛けたまま後ろ手をついて、天井を仰ぐ。苦々しい顔をしているのだろう。
「ナルセスをただのヴィジランツだと思うわけがないのにな」
 ネーベルスタンは当然のようにつぶやいた。
 咄嗟に、立ち上がった。「お前は」強い語気が先に出る。思考の前に体が動いていた。
「ヴィジランツを甘く見すぎているな」
 こちらを見上げるネーベルスタンは、薄く眉間に皺を寄せている。その表情が意味するのは単なる不機嫌ではない。それをわかっていて、この世間知らず、と唇で弧を描いてみせた。
「そんなもの珍しくもない。もっとくだらない逆恨みもごまんとある。かわすすべくらい得ている。もっとも、そういう類の連中にいちいち付き合ってやるほど私はお人好しじゃないがな。お前も知ってるだろう?」
 嘲笑いを浮かべてまくしたてる。けれど、交わす瞳は動かなかった。
 いつもなら眉尻を吊り上げて言い返してくる男なのに。たやすくこちらの思惑に乗せられるのに。こんな時ばかり、思いのままにならない。
「だから、そんな顔をしなくていい」
 ネーベルスタンが二三度瞬く。直後、ナルセスは己が言葉を失言だと断じた。
 いけない。言うべきじゃなかった。きっと調子に乗るだろうから。つけあがるだろうから。勘違いをするから――なにとなにの、勘違いを?
「長居したな。先生がお前を呼んでいたぞ」
 一方的に告げて踵を返した。これ以上ここにいるのは、なにかぼろが出る気がしてならない。背後で立ち上がった気配がしても、放っておくつもりだった。
「ナルセス」
 それができなかったのは、名前を呼んだ声色のせいだ。聞いたことのないアニマが自分の名前に乗っている。体の内側に大きな衝撃がはしって、思わず顔を向けた時だった。ネーベルスタンの手がすぐそこにあった。
 それは、どうしようもなかったと思う。
「、っ」
 肩が跳ねたと同時に指先が首筋を掠めた。ネーベルスタンが硬直する。一歩後退する。咄嗟に首を隠すよう手で覆って、顔をそらす。視界の外で息を飲む音が聞こえた。
「すまない、怪我がないかと、だが軽率だった。本当に」
「いい。首は、なんともない。どこも平気だ」
 それだけを告げて、ナルセスは顔も見ずに部屋を出た。足早に自室に飛び込み、閉じた扉を背に、ずるずるとしゃがみ込んだ。
 嘘を混ぜた。首がなんともないのは本当だ。強く触っても痛くない。痣などもないだろうし、他に怪我もしていない。ただ、平気ではなかった。
 顔が見れない。見せられない。あの双眸は敏いから、すべてを見透かされそうだった。
 ネーベルスタンは勘違いをしただろう。ナルセスが息を飲んだのは、首を絞められた恐怖だとか、拒絶反応だとか、そんな理由だと。それいずれとも違う。
 間違いなく、期待だった。
 触れられることへの期待。それが感情の輪郭を形作った。頭では否定している。だがそれ以外のすべてが否定を許さない。勘違いだとごまかすことはできない。

 風の音がうるさい。窓が軋む音が耳につく。葉がこすれる音が止まない。それでも掻き消されない鼓動の音が耳の奥にいつまでも残っていた。

欺し続けていたものを認めるナルセス。2014年?くらいから書きはじめて2019年に半年だけ2/3ほど公開して、その後webイベント用に書き上げて公開したけど思うところあって非公開にしてたもの。つまり…いろいろとアレだけどいつまでも寝かせといてもしゃーないので公開しときます。
210912

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