手足に絡みついていた触手が弛んだ。が、既にもがく体力はない。間を持たず、今度は口を塞いでいたものがずるりと抜け、腕を掴まれ粘液から引き摺り出された。急に吸い込んだ空気で何度も咳き込む。地面に臥せっているうちに、先ほど腕を掴んだ主の声がした。よく知っている、この場で聞くには癪な声。
「ナルセス」
 咳が止まらず振り返ることができずにいると、背中を撫でられた。一瞬、またスライムの触手が伸びてきたのかと背筋が凍ったが、当然違う。体温を感じる人の手だ。噎せが収まるのを待つようにさすり続ける。
「大きな怪我はないな」
 返事の代わりに手を払う。嘆息で返されるのはいつものことだった。
 未だ明滅する視界のなかでスライムの残骸を見つける。普段なら数十秒で始末できるモンスターに変わりない。屈辱を味わったのは、自分の油断。だが今は、怒りすら湧かない。ひどい疲労に加え、ぬらぬらと肌を滑る感覚が未だ残っていた。緩慢な動作で立ち上がる。
「吐いてくる」
「おい待て、一人じゃ」
「来るな」
 喰い気味に言い返して肩越しに睨むと、ネーベルスタンは息を止めてから、「わかった」とかたく答えた。

 吐いてくる、と告げたのは嘘じゃない。吐き気はないものの、喉の奥まで粘液がまとわりついているようで気持ちが悪い。ただそれよりも、今の姿を見られたくない、というのが本心だった。弱味を知られたくない。情けをかけられたくない。
 そう思うナルセスの手には、槍が握られていた。別れ際、この辺りに水場はないだろう、とネーベルスタンが常用しているものを押しつけられた。水を引き出すツールとして使えという意図だが、得物を手放すなんてどうかしている。結局、受け取ったのはナルセス自身だったが。
 少し歩いて、木立のなかに紛れる。やり方はわかっていても、実際にやったことはない。緊張で背中に嫌な汗が伝った。膝をついて下を向く。指を二本、そっと口に入れ、舌を撫でながら奥へ奥へと進める。支えにした槍を握る手に力が籠った。限界が近づくにつれえずきそうになる。まだ浅い。これ以上動かせないと感じたところで、思いきり指を押さえつけた。
 瞬間、這いずる悪寒。素早く指を引き抜く。せり上がるものを嚥下しそうになるのを堪え、口腔まで戻った酸を一気に吐き出した。びくびくと全身が痙攣し、生理的な涙が滲む。気持ちが悪い。支えがなければ、そのまま崩折れていた。
「っは、ぁ、あぁ……」
 がたがた震える膝を叱咤して、ナルセスは別の木陰に移動した。少し歩いただけで脱力するように座り込む。そのまま倒れないよう、左手に持っていた槍を両腕で抱え、それを支えにする。柄に額を押し当てどうにか息を整えようとしたが、無駄だった。ぎりりと爪を立てるのみで、術を使う余裕はない。呼吸は乱れるし涙のせいで視界もぼやける。こんな情けない姿を見られなくてよかったと、心の底から思った。
 しばらくして落ち着いたところで、木の幹を背凭れに、槍の支えを解く。そのツールを抱え直して水のアニマを引き出した。口をゆすいで、湿り気を帯びて重くなったコートも脱いで腕や髪も洗い流す。気休め程度だが、全身がベタついたままよりはましだった。
 やることを終え、戻るかと立ち上がろうとしたところで、ナルセスは唐突に気が付いた。手にしていたツールに、己のアニマが色濃く移っている。それも、切羽詰まった、荒々しい剥き出しのアニマが。
 ぐっと奥歯を噛み締める。あの男があまりアニマに敏感でないとしても、自分の得物だ。何かを感じ取ることがあってもおかしくない。それによく見ると、木製の柄には爪の跡が残っている。普通に使っていたら到底つくことのない傷だ。
 二つの痕跡に気付くか気付かないか、断言はできない。ナルセスにできるのは、自身のアニマを鎮めて、ネーベルスタンが何にも感付かないよう祈ることのみだった。

 来るなと言いつけた通り、ネーベルスタンはその場から動かなかったようだった。歩いてくる姿を認めて胸を撫で下ろした男とは対称的に、ナルセスは「返す」と冷たく槍を渡した。安堵の表情が固くなる。
「……礼くらい言えんのか」
 予想通りの反応。少しの沈黙の後に、顔を背けて口を開く。
「悪かったな」
 謝罪とも、皮肉とも取れる言葉を、ネーベルスタンは神妙な顔つきで受け取った。こちらもまた、少しの沈黙を置く。と、突然、ジャケットを脱いで、それを差し向けた。不可解な行動に思わず頭をあげる。目元には明らかな険が宿っていた。
「もう、遅れを取るな」
 なぜ、この男が苛立っているのだろう。
「……余計なお世話だ」
 差し出されたものを押しやり素通りする。その瞬間、背後で燃え上がる気配を感じた。濡れた肩に、乱暴に上着がかけられる。だから、要らないと、立ち塞がった男に噛みつく前に、眉間に指を突き立てられた。
「そういうことは」ネーベルスタンが声を荒げた。「自分の顔を、鏡で見てから、言え!」
 眼差しが、真正面から刺さる。手にしていたコートを奪い取って、ネーベルスタンは帰路を歩き出す。苛立っている、より、腹を立てている背中。苛烈なアニマに気圧されて、ナルセスは渋々袖を通した。

なるせすさんが吐くところ見てえな~~~自分で書くか!ということで。ついでにベルの槍を使ってもらった。ベルがナルセスの弓を使うのも、ナルセスがベルの槍を使うのも性癖なので何回も書いちゃう。
160106

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