こーん、と晴天の元に鈍い音が降った。息を飲んだ一瞬が命取りになる。がら空きになった腹部へ靴底がまともに命中する。息を詰まらせなすすべもなく尻をついて、その瞬間勝敗は決した。喉笛を切り裂かんとした切っ先は、目的を果たす直前でぴたりと静止する。ふわりと、風に赤いマフラーが揺れた。
 刹那の静寂の後、「そこまで」と声が轟いた。
 ヨハンは静かに剣を引き体勢を整えた。地面に転げた兵士が仲間の手を借りて場外へと退いてゆく。それを見送りながら、ギュスターヴは自慢げに声を上げた。
「さすがヨハンだな! 今ので、ええと」
「六勝目です」
「そんなにか。あいつ、まだ息も切れてないぞ」
 ネーベルスタンの言葉を受けて目を凝らす。遠目に見る横顔はいつもの涼しい表情だった。
「皆さん、悔しそうですね」
 ギュスターヴの傍らで、同じく彼らを眺めていたヴァンは少し引き攣った声で言った。悔しそうと評したのは、相対していた兵らに対してだ。たった今土にまみれた仲間を労いながら、同僚たちは唇を噛んでいる。歯軋りの音が聞こえそうな様だった。あらぬ方に顔をそらしているヨハンは、たぶん困っているのだろう。ほかの者よりも彼を理解しているヴァンは、そう見当をつける。
「お前たちが風に追いつけるはずもない、と釘は刺したものですが」
「いやいや、若いやつらは無謀なくらいが丁度いい」
 ギュスターヴが微笑む理由は、ヨハンの強さに対してだけではなかった。主君の護衛を一人で担う新参とはいかなる者か。手合わせの直談判に出た複数人の若者たちの、血気たるやを好ましく思っていた。
「風、ですか」
 ヴァンのつぶやきに「ああ」とネーベルスタン。「兵達の間ではそう呼ばれている。文字通り、風のように身軽だから、だろう」
「なるほど。僕はてっきり、アニマのことを言っているのかと思いました」
「うん? まあ、いるのかいないのかわからないのも含めて、風らしいが」
「あはは……そうではなくて」
 にやりとして付け足したギュスターヴの言葉に首を振って、ヴァンはヨハンを見つめた。
「ヨハンのアニマは、木漏れ日の匂いがして、深い森を駈ける風によく似ているんです。透き通っていて、とっても綺麗で……」
 ぼんやりと眺めて再確認する。やはり、吹き抜ける風だ。少し居心地が悪そうにしているからか、今は靄がかかったようだけれど。
 そのヴァンの横顔を、ギュスターヴはぽかんと呆けて見ていた。視線に気がついて、ヴァンは首を傾げる。
「あの、なにか……?」
「いやあ、ヴァンも随分とロマンチックなことを言うんだな。詩にして手紙でも書いたらどうだ」
 ああでも、あいつはあまり文字が読めないし、そういう情緒には鈍そうだ。直接的な言葉じゃないと通じないからなあ。ヨハンが相手だと苦労するな、ヴァン。
 にやにやとしたいやらしい笑みの意味を悟った瞬間、ぼっ、とヴァンの頭から火が出た。確実に、盛大な勘違いをされている。
「ちが、違います! そういうことじゃなくて、僕は見たままを言っただけで!」
「そう謙遜するな。アニマの姿に喩えるなんて、お前にしかできない芸当だろう」
「だから、喩えじゃなくて……!」
 声を荒げて千切れんばかりに首を振るヴァンをからかって、ギュスターヴは豪快に笑い少年の肩を叩く。困り果てて言葉を失っていたところへ、「ギュスターヴ様」とネーベルスタンが口を挟んだ。ギュスターヴは少し驚いて目をやる。ネーベルスタンは、こういった会話にはあまり加わらない。
「彼の言っていることは、本当に見たままなのでしょう。喩えでも詩でもなく」
「本当に、見たまま?」
 今度こそ目をまん丸にしたギュスターヴは、鸚鵡返しに尋ねた。ネーベルスタンがヴァンに目配せをして説明をするよう促す。
「どう、というか……アニマの色とか匂いとか、それと、雰囲気っていうんでしょうか。人それぞれのアニマを五感で……あ、音は聞こえないけど、そういうのが感じられるんです。ごめんなさい、ほかに言いようがなくて」
 主君の顔色を窺うが、ぴんとこないようで首を捻ったままだった。そうでなくても、元よりアニマを感じることができないギュスターヴに、ヴァンの感覚を理解するのは困難だろう。
「将軍はわかるか?」
「いいえ。術が使えたとしても、ヴァンのような感覚を持ち合わせた者はほとんどおりません」
「でも将軍はその感覚を理解しているんだろう?」
「似たようなことを言った知人がおりましたので」
「ふうん」
 きらり、とギュスターヴの目が輝いた。
「ヨハンのアニマが目に見えるのか? 他の者も? でもそれだと普段の生活に影響があるだろう?」
 矢継ぎ早に質問をされて、ヴァンが慌てる。
「ええと、僕は見えるというより、意識すれば感じるとか、頭に浮かぶとか、その程度なので困ることはありません。ヨハンだけじゃなくて、他の人も同じように」
 例えば、とヴァンは思い出しながら、ぽつぽつと語る。
 ケルヴィン様は、雨上がりに木の葉からこぼれる露のようです。すごくかすかだけど、甘い花の香りがします。シルマール先生は、靄がかかった冬の空に似ていて、本を火にくべたような匂いをよくかいだ記憶があります。
「今思い出せるのはそれくらいですね」
「それじゃあ、将軍はどうだ?」
 えっ。とヴァンの顔が驚きと緊張で固まった。ちらりとネーベルスタンを見上げる。ギュスターヴがそう言い出すのを予期していたネーベルスタンは、構わないと頷いた。そうは言っても本人の目の前で言うのは気が引けるのに。躊躇いは深呼吸一つで押し込める。ヴァンは彼のアニマを捉えようと目を閉じた。
「ネーベルスタン将軍は……赤い大地と、夕日、それから潮の香りが……」
 言い止して、ヴァンはネーベルスタンを見上げた。
「どうした?」
「いえ、あの……将軍は、なにかツールをお持ちですか? いつも身につけているような」
「ツール?」
 考える素振りを見せたネーベルスタンは、すぐに思い当たったようだった。一瞬、表情が険しくなる。もしかしたら、聞いてはいけないことだったのだろうか。さっと青くなったヴァンを気に止めず、ネーベルスタンは襟元を緩めた。両手を首の後ろに回す動作にもしかしてと思うと、案の定、現れたのはペンダントだった。外されたそれを両手で受け取る。ペンダントのヘッドは、赤い石がはめ込まれたリングだ。
 光を吸い込むくすんだ色の奥から、そっと触れた手のひらから、じんわりとアニマが伝わる。
「はい、これです。硬い炎の気配が少しだけしたので、ツールかなと思いました」
 ヴァンの言葉に驚きの声を上げたのはギュスターヴだった。
「そんなことまでわかるのか?」
「同じツールをいつも持っていると、ツールが宿しているアニマが人にも移る、というんでしょうか……人のアニマとは違うものを感じるんです。強力なクヴェルだともっと顕著ですよ。ケルヴィン様から樹と水の気配を感じるのも、あの腕輪のためかと思います」
「なるほどなあ」
 でも、とヴァンは手の中のリングを観察した。ヴァンが気づいたのは、小さいけれど岩石のように硬い炎だった。それに対してリングのアニマはとても微弱だ。相当に長い期間、それこそ、年単位で肌身離さず身につけていなければ、こんな気配はしないだろう。ツールは、本来消耗品なのだが。
「このツール、長く使っているんですか」
「ああ、随分前に人にもらったものだ」
 それじゃあ、すごく大切なものなんじゃないか。はっとしたヴァンは慌ててペンダントをネーベルスタンに返した。なにか持っているかと尋ねたときの険しい表情は、人の手に渡したくなかったからだったのかもしれない。すみません、と恐縮したが、返ってきたのは、予想外に朗らかな声だった。
「謝る必要はない。興味深い話が聞けてよかった」
 ありがとう。と感謝を述べられて、ヴァンは言葉に窮する。軍を総括するネーベルスタンとはあまり関わりを持たないが、こう穏やかな姿は見たことがない。おずおずと頭を下げながら、厳しいだけの人ではないんだなと肩の力を抜いた。
「意外だなー。将軍が装飾品のようなツールを愛用しているとは知らなかった」
「そうですか? これはギュスターヴ様に仕えるより前から持っておりましたが」
「全く気づかなかったぞ」
 その年数を指折り数えてヴァンは驚愕と同時に納得する。通りで色濃く感じるわけだ。
 ペンダントをかけ直したネーベルスタンが、長い髪を一纏めに持ってチェーンにくぐらせる。首にかけたリングを摘んで、おもむろにつぶやいた。
「……私も、装飾品はあまり好みません。ただ、好意でもらったものですから、無下にするわけにはいかないでしょう」
 指先で石をなぞる男の横顔を認めた瞬間だった。
 ざあ、と、耳朶を叩く音。吹き荒れる猛風。舞い散る青葉。
 はっとしてまばたいた時には、それは全く消え失せていた。今のは、とヴァンは奇妙な感覚を覚える。雲に隠れたかのように、赤い大地の気配を一瞬だけ見失った。代わりに彼を覆ったのが、先ほどの光景だった。それも気配だけではなく、はっきりと目に見え、普段は聞こえない音まで聞いた。瞬きの間に消えてしまったけれど気のせいではない。確かに。
「そろそろ続けようか」
 気配を探ろうとしたヴァンは、ギュスターヴに遮られた。ええ、と頷くネーベルスタンに異変はない。おかしいなと思いつつ、それを理解できる者はいないので問うことはできない。
「二人とも、準備はいいか?」
 主君に訊かれてヨハンと兵士が短く返事をする。仲間達と相談をしたのか作戦をたてたのか、若い兵はやる気に満ちている。一矢報いてやろうという気概が、アニマを通さずともわかった。
 号令をかけようとしたネーベルスタンが、ふとなにかを思いついたようで、ヨハンに声をかけた。近づいて一言二言告げた後、ヨハンが頷く。すぐに戻ってきたネーベルスタンにギュスターヴが「手加減でも命じたか?」と茶化すように尋ねた。
「試合をご覧いただけばわかるかと」
 答えた声が、笑っているようだった。

 「構え」で二振りの剣が静かに突き出される。「用意」で肢体が緊張しぴたりと固まる。「始め」で片方が飛び出した。
 若い兵が距離を詰める。一合、右からの振り払いを、風伯を縦に構え防ぐ。二合、今度は左から斜めに上へ、同じように防ぐ。三合目のぶつかり合いはなかった。上段からの斬撃を軽やかに退け、ヨハンは素早い突きを繰り出す。左に避けられるも、マフラーをはためかせ、振り向きざまの薙ぎ払いで剣を弾く。剣を取り落としそうになったのを堪えた兵が体勢を整えるため跳び退さる。距離が空いた。途端、予兆なく、ヨハンの肩からふっと力が抜けた。倒れ込むようにだらりと姿勢が低くなる。片手を地につけ、左手だけで風伯を持った格好。型が崩れて、動きの予測がつかない。対峙する兵の困惑を見逃さなかった。地面を蹴る。一足の跳躍で眼前に迫る。
「あっ」
 小さく、ヴァンは声をあげた。
 ヨハンの手にする風伯が、兵の兜を引っかけていた。一瞬の交差で、ヨハンは兜を奪い取ったのだ。はっとして兵が振り返る。ヨハンは相手の顔を一瞥し、手に取った兜をそちらに向けて放り投げた。革の兜がころんと転がる。足元に落ちたそれを見て、兵の顔がみるみる赤く変色した。
 長いため息が耳に届いて、ヴァンは傍らを振り返る。ゆったりと座していたギュスターヴが、いつの間にか身を乗り出していた。
「……将軍、いったいヨハンになにを言ったんだ」
 ギュスターヴが苦笑混じりに問う。ネーベルスタンはくく、と喉を鳴らしながら「なにも」と返した。
「兜を取れと、それだけで。首を投げ捨てろとは一言も言っておりません」
「ということは、あれは天然か」
 ふーっとギュスターヴはもう一度深い息をつく。
「首って、なんのことですか?」
「ん? んー、ああやって兜を取り上げるのは、首を落とすよりも難しいんだよ、ヴァン」
 教えられて、確かにそうだろうなと納得する。だが、ヨハンが投げたのは当然首ではなく、兜で、それに対して兵があんなにも怒り狂う理由が思い当たらない。
「要するに」とネーベルスタン。「兜を取れたのだから首を取ることもできる。兜を奪われるのは、兵にとっては首をはねられたのと意味は同じだ。あまつさえヨハンは、取った兜、つまり首を返すわけでもなく、ぞんざいに投げ捨てた。大将首でもないお前のような雑兵に価値はない……そう、思い切り煽ったと思われても仕方がない」
「ヨハンはそこまで考えていないだろうが、将兵はそう受け取るのが普通だからなあ」
「それは、ああ……」
 力不足だったとは言え、そこまで言われる筋合いはないと激怒は必至だ。
 それまでは単に悔しげだった若者達が、一斉に、憎悪とも言うべき鋭い眼差しをヨハンに向けたのは、二人の言う通りだからだろう。技量では適わないが、今なら目で射殺せそうな、そんなわけはないけれど。
 ヨハンの腕前に不信感を抱いて手合わせを申し出た彼らが、今度は人間性を疑うことになるんじゃ……。そんな可能性に行き当たったヴァンの額に冷たい汗が流れる。その硬い表情に気づいたのか、ギュスターヴは「大丈夫だ」と囁いた。立ち上がって朗々とした声をあげる。
「よしよし、お前たち、よくやった」
 兵らに歩み寄るギュスターヴに追随しようとし、しかしヴァンは足を止めた。
「あの、ネーベルスタン将軍、一つ伺いたいことが」
「なんだろうか」
「僕と似たようなことを言っていたお知り合いって、どんな方なんですか? そういう人に会ったことがないので、少し、気になって」
 抽象的な問いの本意を汲み取り、ネーベルスタンは言葉を選んで答える。
「術士だ。昔からの体質のようなものだと言っていたから、先天的なものだろう」
「僕も、同じです」
「だが、君の表現は独特のものだ。私の知人はシンプルに……ほとんど、好きか嫌いか、快か不快かでしか言わなかった」
「へえ……」
 見ているものが同じかどうかはわからないが、その人は自分とは違う感性を持っているのだろう。いや、そもそも見え方も違うのかもしれない。見知らぬ人に思いを寄せる。ほころんだ顔をそのままに、ヴァンは素直な気持ちを口にする。
「いつか、お会いしてみたいです」
「機会はあるかもしれない」
 無茶を承知の上での発言に返ってきたのは、思いがけず柔らかい口調だった。子供の言うことだからと気を遣わせてしまったのか。ヴァンの心配を裏切るように、ふっとネーベルスタンが相貌を崩した時だった。わっと歓声が上がる。顔を上げると、こちらへ向かってくるギュスターヴと目が合った。その足取りは妙に軽やかだ。
「ギュスターヴ様、どうかされましたか?」
「うん、ちょっとあいつらの相手をすることにしたから、着替えに行くところだ」
 へっ? と声を漏らしたのはヴァンで、ネーベルスタンは僅かに顔をしかめた。ヨハンの誤解を解くための話をしていたはずなのに、どうしてそんなことに。
「ちゃんと言っておいたから心配するな。ヨハンの挑発行為は私が指示したものだし、お前たちに敵視されてでも私の命令を守ることができるか確認するためだと説明した。納得していたから、大丈夫」
 随分乱雑な言い訳のように聞こえるのは、事情を知っているからだろうか。一応、とギュスターヴの傍らで沈黙を貫くヨハンに、兜を放り投げた意図を聞く。返ってきたのは「なんとなく」の一言だけだった。案の定の無自覚である。
「そういうわけだから、将軍……」
 ギュスターヴは、きらきらと、期待のこもった瞳で見つめる。それとは対照的な渋い表情のまま、ネーベルスタンは肩を竦めた。
「……あまり、時間を割きませんよう」
「ああ! 少しだけだ」
 「私はこれで失礼します」とネーベルスタンは長い髪を翻して去る。その背中を見て、ヴァンはもう一度だけ意識を集中させた。あの時、一瞬だけ巻き上がったアニマは彼のもので間違いないと思う。けれど、今感じられるのはやはり、赤い大地と、夕日と、潮の香り。そして小さな炎の気配だけだった。

「珍しいこともありますね。ネーベルスタン将軍があっさり許してしまうなんて」 
 アニマを追いかけるのを諦めて、ヴァンはギュスターヴに向き直った。普段のネーベルスタンならば、「それはギュスターヴ様のなさることではありません」と一蹴するであろう我が儘だ。それが、どういう心境の変化かはわからないが、小言の一つもないなんて。我が主君もさぞ機嫌が良いことだろうと見上げた顔は、確かに笑顔を浮かべていたが、あまり朗らかではない。どことなくいやらしい笑みに見える。嫌な予感を察知して、ヴァンはそろりと一歩退こうとした。が、その前にヴァンの頭にギュスターヴの手のひらが降ってきた。ぐしゃぐしゃとかき回される。
「お前のおかげだ。ヴァン、よくやった」
「な、なんのこと、ですっ!」
 解放されるのを待たず、ヴァンはギュスターヴの腕の中から逃れる。頭を撫でられることには慣れてもこう荒々しくされるのは苦手だった。乱れた髪を直しながらヴァンは尋ねる。
「あのペンダントの話をしている時の将軍、見たことがない顔をしていただろう」
 顔、と言われても、アニマの気配に気を取られていたヴァンに思い当たる節はなかった。だが、アニマではなくその表情を見ていたギュスターヴは、感づいたところがあったらしい。曖昧な反応しか見せないヴァンに対して大げさに肩を落とす。続いて「お前は」とヨハンに詰め寄るが、いつもの通りの真顔のまま、わずかに首をかしげただけだった。
「なんだ見なかったのか。いやーもったいない!」
「もったいないって、なにがですか?」
 ヴァンの問いには答えず、ギュスターヴは軽やかに歩き出した。見上げた横顔は、また、あのいやらしい笑みを浮かべている。きっとなにかを企んでいて、それはやはり、盛大な勘違いでもあるのだろう。ヴァンは決めつけた。

書きたい要素(ヨハンの戦闘シーン+ヴァンの共感覚+ヴァンと将軍のお喋りシーン+兜の話+言わないとわからないべるなる)をごっちゃ混ぜにするとこういう話ができあがります。書いてるうちはとても楽しいけど、タイトルをつけるのにとても苦労する。
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200309

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