下段に構えていた槍を肩に乗せて、ネーベルスタンは天を仰いだ。
 素晴らしい日和である。
 早朝の薄い色は高く透き通り、雲は見当たらない。突き刺さるような日差しも感じられず、時折吹く風は少々火照った体に心地よい。
 一度深呼吸をしたネーベルスタンは、くるりと踵を返した。軽い足取りで向かうのは師が住まう屋敷。一人旅を初めてから続けていた早朝の素振りは、もはや彼の日課となっていた。かの術士、シルマールに師事してからも、それは変わりない。
 道を行きながら、ネーベルスタンは邸に戻ってからの予定を確認する。師は既に起きているだろうから、着替えを済ませて、朝食の用意を手伝い、食事が済んだら武具の準備を。
 と、そこまで考えて不意に、彼は渋面をつくった。
 やはり、朝食は師に任せよう。申し訳ないが、やらねばならない面倒事がある。本当に、どうしようもない面倒事が。
 今屋敷には、昨日、数週間ぶりに訪れてきたナルセスがいる。彼は、寝起きが非常に悪いのだ。

*

「おい、ナルセス。起きろ」
 コンコンとノック。ドアを開けると同時にネーベルスタンは声をかけた。返事を聞かずに部屋に入るのは、いつも、ナルセスがベッドの中で丸まっているからだ。
 しかし、今日は、珍しく体を起こしていた。普段なら、安らかな寝息をたてて熟睡しているところで、変わったこともあるものだなぁと、ネーベルスタンは軽く目を張った。
 ナルセスは、いまだ頭に霞がかっているようで、軽く俯いている。こんなふうに黙っていれば、整った顔立ちが際立って、思わず見とれてしまう。が、なにしろ、初対面の相手に平気で暴言を吐く男だ。あまりの言いように、やはり人は中身だと思い知らされる。
 そんな、これまで何度も巡らせた思考をまたも持ちながら、ネーベルスタンはベッドに近づいた。
「起ききたならさっさと出てこんか」
 呆れたように言ってやると、ナルセスは必ず言い返してくる。諸手を挙げたくなるくらいの勢いで、こちらを攻め立てる。それをわかっていながら、あえて煽るような物言いをするのはネーベルスタンくらいなものだ。
 しかし、彼の意に反して、ナルセスは黙ったままだった。おや、と眉を寄せて、顔色を窺う。具合が悪いとか聞いていないとか、そういうわけではなさそうだ。
 どうしたのかと名前を呼ぶと、ナルセスは緩慢な動作でネーベルスタンを見上げた。
 そして、口を開いて一言。
「のど、いた…い」
 思わぬ言葉に、ネーベルスタンは、今度はしっかりと瞠目した。
 一階に降りてきたナルセスは、黙々と食事をとった。
 元々食事中の口数は少ないが、喉の痛みがあってか、それが一層顕著になっている。極力声を出したくないのだろう。
 朝食を済ませたのを見計らって、彼の横顔を見守っていたシルマールは眉を寄せて唸った。
「何か傷を負ったわけでもないようですから……たぶん、ただの風邪でしょうね」
「風邪?」
 声を上げたのはネーベルスタンだった。おそらく、と頷きながらシルマールは続ける。
「菌をもらってきたのか、眠っている時に冷えたのか、わかりませんが……そんなに意外ですか?」
「いえ。……まあ確かに、弱そうに見えますし」
 ネーベルスタンがナルセスを見、シルマールもそれに倣う。ナルセスは、男性にしては華奢すぎる体格だ。整った顔つきもあいまって、女性に見えることも、あったりなかったり。それを当人の前で漏らすと、全身大火傷の可能性がなきにしもあらずなので、口にはしないが。
 二人の双眸が向けられたナルセスは、鋭い眼光をネーベルスタンに飛ばした。手の中に意識を集中させ、激しい炎のアニマを巻き起こす。その荒々しい気に感づいたネーベルスタンは慌てて弁解した。
「いや、軟弱だとか、そういう意味ではないぞ。まあ、その、とにかく、室内で術を放つのは良くない。それに詠唱無しだと体への負担が大き……あ」
「!」
 詠唱、という言葉で、ネーベルスタンは表情を曇らせ、ナルセスは口元を押さえた。
「問題はそれなんですよ」
 ふう、とシルマールは肩を落とした。
 喉が使えない。つまり、詠唱ができない。それは、術を専攻する者において致命傷だ。詠唱無しでも、一応術は使える。だがそうすると、術の精度は不安定になり時には暴発もする。そして何より、体力の消耗が激しすぎる。
「治癒術は私が使えますが、火力はナルセス君の方が上ですからね」
 術自体はシルマールも使うが、攻撃術はナルセスが主体。攻撃性能の高い火術を得意とし、好んで使うからだ。だが、それが欠けるとなると、普段より苦戦するのは明らか。
 ネーベルスタンは苦虫を噛んだ。
「それでは、今日の探索は……」
 無理か、と言おうとした時、派手な音と共にテーブルが揺れた。ハッとして首を巡らすと、ナルセスが拳を叩きつけていた。
「私は、術一辺倒ではない」
 言い終えて、口を真一文字に引き結ぶ。じわりと広がる痛みに顔をしかめていたが、かすれた声は、強さを失っていなかった。
 ナルセスの発言を聞き、ネーベルスタンは自分の失念に気がついた。素質すらないものの、ナルセスは、実戦で十分に力を発揮できるほどの、弓の使い手でもあるのだ。
 どうしますかとネーベルスタン。判断を仰がれたシルマールは、朗らかに笑った。
「ナルセス君がそう言うなら、問題はないでしょう」

*

 三人は当初の予定通りに足を進めた。
 適度に強いモンスターを相手にしながら、技・術の精度向上を計る。ネーベルスタンがシルマールに師事してから、定期的に訪ねてくるナルセスを含めた三人で始めたことだ。
 それは今までに何度も行っており、慣れているはずだった。しかし、ネーベルスタンは戦いづらさを感じていた。
 原因は、ナルセスの術が全くないことである。
「スカッシュ!」
 強烈な一撃を叩き込み、ネーベルスタンは後退する。続く攻撃を予測して、しかし慌てて頭を振った。槍を構え直したところに鋭い矢が突き刺さるが、致命傷にはならずモンスターは重い咆哮をあげた。
 弓技との連携を考えるのを忘れていた。というより、癖で攻撃をしてしまった。普段と同じように、自分の後に火術が来るものだと思って。
「すまんナルセス!」
 背後のナルセスに聞こえるよう声を張り上げて振り返ると、彼は苦々しい面もちに眉間に皺を寄せていた。思わず謝ってしまったが、術が使えず一番口惜しい思いをしているのはナルセスのはずだ。無意識についた言葉だったが、彼の高いプライドを思えば言うべきではなかったか。
 閉口して、また背を向ける。すると、連携するはずだった術を放ったシルマールが、隣で微笑んだ。
「失言でしたね」
「はい……あとでど突かれそうです」
 喉の調子のために言葉責めにあうことはないが、代わりの実力行使が待っていそうだ。その光景が易々と想像できるのが、また嫌なところ。
 苦笑するネーベルスタンを見、くすくすと笑いを漏らしたシルマールは「その前に」と瞳を細めた。
「仕上げといきましょう」
 冷たくなった声音に、ネーベルスタンは気を引き締めた。
 連携は成せなかったものの、シルマールの術をまともに受けたモンスターは、グルグルと息巻いていた。冷静さを欠いた生き物は、十分な技量を持った戦士にとって敵ではない。
 はいと短く返事をして、ネーベルスタンは槍を下段に構えた。自分が足を狙ってナルセスが目を潰せばうまくいくはず。ナルセスに目配せをし、槍を軽く振ってジェスチャーを交えながら、それを伝える。だが、ナルセスは首を横に振った。
 何故、と困惑したネーベルスタンは、ナルセスが口元を掌で覆ったのを見て、まさかと思った。次のとき、予感は確信に変わる。湧き上がる炎のアニマ。隣のシルマールも目を丸くする。二人が止める間もなく、ナルセスはアニマを爆発させた。
 瞬間、モンスターが炎に包まれる。それを見て、慌てて槍を構え直した。視界の隅に崩れ落ちる姿がチラついたが、攻撃の手を緩めるわけにはいかない。炎が消えるのと同時に、ネーベルスタンはモンスターの目の前に躍り出た。ナルセスに無理をさせた自分への憤りと苛立ちを、技にしてぶつける。
 凄まじい火術と素早く繰り出された突き。容赦のない連携に、人間の数倍ある巨体は地に伏した。
 モンスターが息絶えたのを確認したネーベルスタンは、汗を拭うのも忘れてナルセスの元へ駆け寄った。
 岩に背を預けたナルセスはすでにシルマールの介抱を受けていたが、その消耗は術でどうにかなるものではない。詠唱もなしに、己のイメージだけで強力な術を放ったのだ。疲労はひどいはず。
「無茶をしすぎです。あなたは、詠唱無しで術を使えるほどの力はまだ持っていませんよ」
「……すみません」
「わかっているのなら、もう無茶はやめなさい。あなたを守れるのはあなた自身なのですからね」
 シルマールの叱責を受けて、ナルセスはこくんと頷いた。その仕草でさえ、気怠そうに見える。
「全くだ。無駄な心配をかけるなよ」
「お前が私の術に頼らんとまともに動けんようだったからだ」
「その調子では問題なさそうですね」
 弱々しくかすれた声ながらも一息にまくし立てるナルセスに、シルマールは苦笑混じりに安堵の息をついた。が、ネーベルスタンはこの差はなんだ、と今更ながら一種の寂しさのようなものを感じた。
 「ですが」とシルマールは顎に手を添える。
「このまま歩くのは無理ですね。今日のところは邸に戻りましょう」
 その言葉にナルセスは渋々頷く。自分の所為で切り上げるのだから、彼も思うところがあるのだろう。ネーベルスタンには、悔しげな表情の中に申し訳ないと思う心が見えたような気がした。
 はあ、と重い息を吐き手をついて立ち上がろうとしたナルセスは、やはりだるそうだった。ネーベルスタンはとっさに手を差し出したが、ナルセスに一睨みされた。
「……なんだ」
「いや、だるいなら手を貸そうかと」
「いらん」
 案の定、ぷいと顔を背けられ、ネーベルスタンは顔をしかめて差し出した手を所在なくぶらつかせた。が、ナルセスは一歩二歩足を進めただけで、体勢を崩した。
 おいおいと声をあげて、ふらつく体を抱き止める。そして、もはや癖になってしまった盛大なため息をついた。
「やっぱりだめじゃないか」
「……うる、さい」
「減らず口だけは元気な……ってナルセス、お前、なんか」
 片腕でなんとか体を支え、額、頬、首に順番に手を当てる。熱い。それに、よく見ると顔が紅潮している。これは、もしかして。
「ああ、そういえば」
 それまで黙っていたシルマールが、ぽんと手を叩いた。
「ナルセス君は、喉を潰したのでなく風邪をひいていたのでしたね」
 昼に邸を出、一刻ほど歩いてやってきたのは森の中。町中よりも気温は低いそこで、いきなり巨獣に遭遇し、戦うこと半刻弱。久々の長期戦を緊張状態で動き回ったところに、強力な術を詠唱無しでどかんと一発。
 二人は、顔を見合わせた。

*

 その後、熱の所為で意識が朦朧として動けなくなったナルセスは、ネーベルスタンに背負われて移動することになった。
 背負うか担ぐか抱えるかの選択肢があったのだが、担ぐにしても抱えるにしても、ネーベルスタンの体力が保たないことを理由に、背負うことになった。
「よいしょっ……と」
 勢いをつけて立ち上がり、ふらつかないよう足を踏ん張る。華奢と言えど、成人男性は重い。正直背負えるか不安だったのだが、なんとか行けそうだ。
 そのまま歩き出すと、二人の武器を持ったシルマールは感嘆の声をあげた。
「ああ、さすがに力がありますね。抱えても良かったのでは?」
「いくらなんでも、それは腕が死にます」
「おや、男性を抱えることに抵抗はないのですか」
「……女性を抱える方が緊張しますよ」
 苦し紛れに言い訳をすると、シルマールはくすくすと笑った。ネーベルスタンからすれば、笑い事ではないのだが。
「それにしても、面白いものを見ました」
 帰路を行きながら、シルマールほけほけと笑った。彼の言う面白いものが何か見当がつかないネーベルスタンは首を傾げる。その彼に、シルマールは「術を使ったことですよ」と教えた。
「そんなに面白いことですか?」
「今までの彼を見てきた私にとっては、とっても面白かったです」
 明確な答えになっていない返答に、ネーベルスタンは口をへの字にする。
「俺にはわかりません」
「そう拗ねないで」
「拗ねてません!」
「そうですか? ……なんだかナルセス君に似てきましたねえ」
 ぽつりと漏らした台詞に、ネーベルスタンは苦虫を噛んだ顔をした。俺がナルセスに? 冗談でもない。
 言葉よりも雄弁な表情を見、シルマールは笑いながら話を戻した。
「まあ、それは冗談として、今日のナルセス君は本当に珍しかったのですよ。彼は、保守的とでも言いますか、あんな馬鹿なことをしない人間ですから」
 ふうん、とネーベルスタンは特に驚くこともなく、師の話を聞く。たしかに、ナルセスは無駄なことを嫌う合理主義者に近い。だから、わざわざ己の身を危険にさらす真似などするはずがない。ネーベルスタンも、彼が術を放ったときには驚いた。だが、それを特別面白く感じることはなかった。
「ふふ、やはり何も思いませんか」
「まあ」
「それでは、ひとつ良いことを教えましょう」
 内緒話をするかのように、シルマールはわずかに声を潜める。ナルセスが意識を戻していないのを確認すると、「実は」と手を添えて囁いた。
「ナルセス君と連携をしたことがあるのは、私以外にあなたしかいません」
「え」
 これには、ネーベルスタンも驚いた。いくらナルセスが高飛車と言っても、戦いの際の味方との連携は非常に有利で、安全に戦闘を終えるためにも連携は必須とされている。
 ネーベルスタンが以前聞いた話では、自分と出会う前は、他の冒険者を交えてこの捜索をしていたという。強敵に遭遇することもあっただろう。それなのに、連携なしとは。
 言葉を失うその様子に、シルマールは悪戯な笑みを浮かべた。
「ええ、ですから、わざわざ己を削ってまで連携をしたナルセス君が、面白いと思ったのですよ」
「それは……なんというか……」
 いわゆる特別扱い、か。
 同じく、彼にとっての特別であるシルマールは、師として尊敬し仰いでいる、という表現が近いだろう。だが、ネーベルスタンは一体何なのか。普段からけなされ罵倒され、それはもうひどい言い草だ。だというのに、それが特別扱いだと言う。認められていると考えて良いのだろうか。あのナルセスに認められているのなら、嬉しい、というのが正しいのだろう。が、それよりも驚愕の方が勝って逆に恐ろしい気もする――――。
 当のナルセスを背負いながら百面相するネーベルスタンに、さらに追い打ちをかけるように、シルマールがぼやいた。
「それに今だってナルセス君は……」
「は、今?!」
 ナルセスの名前に反応したネーベルスタンが、なぜか危機迫る表情で、ぐるんとシルマールに向く。
 そんな彼とは対照的に聖者の微笑みをたたえたシルマールは、わざとらしく唇に人差し指を当てた。
「……っと、これは次のお楽しみにしましょうか」
 何を言うか期待していた分、その落胆も大きい。ネーベルスタンは平静を保とうと努力しながら問いかける。
「シ、シルマール先生、次とは」
「一度に全て明かすより、小出しの方が楽しいでしょう?」
 とうとう歩みを止めてしまったネーベルスタンを置いて、「早くしないとナルセス君が可哀想ですよー」などと他人事のように言いながらシルマールは歩調を速めた。
 ネーベルスタンの脳裏に、悪戯に笑う顔が蘇る。
「俺は、楽しくなんて……!」
 ないです、と声を荒げようとした時、背中から苦しげな吐息が聞こえ、ネーベルスタンは慌ててシルマールを追いかけた。

ネーベルスタンとナルセスの最悪の出会いから一年。二人の距離が徐々に縮まるある日の話。この辺りから、二人が互いを意識していると認識するようになる、といいな。
ちなみにシルマール先生の「次のお楽しみ」はその名の通り、また別の話になります。あと初期設定ではこの話1230年でした。都合が悪くなったので時期変更。
111011

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