願いが叶うと噂の不思議なイドラスフィア。つばさと霧亜の一件以来、そこはフォルトナ内でちょっとした人気スポットとなっていた。
 そのゲートから出てくる者は、満足げな顔をしている。どんな願いが叶ったのかを直接問いただすことはなかったが、誰もがそんな表情をするのだから、ああ宝箱を見つけたんだなとなんとなく察してしまう。一人、また一人と幸せの色を乗せる顔を、樹は穏やかな心地で見ていた。
「そういえば、イツキは宝箱を見つけていないな」
 クロムが神妙な声音でそう言ったのは、ほとんどのメンバーがその願いの宝箱を得た頃だった。
 東京に夜の帳が下りる時刻でも、ブルームパレスはまばゆい光が差している。夕方のレッスンが終わった後にミラージュとの時間を過ごすのは樹の日課だった。普段どおりの、どうという事もない会話の途中で降ってきた言葉。宝箱。唐突な発言に樹は首を捻る。俺の? 見つける? 何の話だろう。
「俺がタブレットを手に入れたあのイドラスフィアだ」
「ああ」
 話の内容を理解した樹は頷いた。クロムが既に件のイドラスフィアで宝箱を開けたことは聞いている。なんの変哲もないタブレット端末が端座していたという。
 クロムは手に入れたタブレットで、樹がエキストラとして出演したドラマの未公開映像を見たらしい。本放送では映らなかった樹の姿を嬉々として報告してくるクロムは、それはそれは幸せそうで、かなり堪えた。通行人Aレベルの端役にそこまで喜ばないでほしい、というのが樹の思いだが、声を弾ませるクロム彼自身は本当に嬉しくて、ありがたくて、話を切り上げられず仕舞いだったのは記憶に新しい。
 蘇る気恥ずかしさを飲み込み、クロムの問いかけに答える。
「確かに見つけてないけど、願いって言われても、思い浮かばないんだよな」
「探してみるだけでもいいんじゃないか?」
 クロムの言う通り、願いがないまま探すのも、無意味ではないだろう。深層心理でさえ叶えてしまうとは聞いている。それはそれで少し恐ろしいような気もするが。それにしても、食い下がるクロムは珍しい。
 そう思ったのが、顔に出たのかもしれない。崩れたエンタシスに凭れて腕を組んでいたクロムが姿勢を正した。
「たまには、イツキ自身の夢を叶えたい」
 クロムはまっすぐに樹を見つめて言い放った。
 たまには。たったそれだけの言葉に込められた想いを、樹は理解することができてしまう。
 クロムと出会ってからこれまで、樹はフォルトナの仲間達の手助けをしてきた。樹がそうしたいから行動してきたのだし、手助けをすることで樹自身の成長にもなってきた。ただ、初めから、自分の明確な目標や願望に向かってなにかを成したか、というと疑問が残る。
 クロムは、そんな樹の姿を一番近くで見ていた。それはつまり、他の誰でもない、樹だけの夢を叶える瞬間を見たことがない、ということで。
 だから、そう言われてしまったら、樹は頷くしかなかった。
 自分自身の夢や望みをはりかねている。それでもいいかとある意味で達観している樹の分までを、クロムが案じている。その想いが、ぽかぽかと樹の心をあたためた。じんわりとした熱が喉元にせり上がって、顔まで熱くなった気がして、樹は咄嗟にうつむく。視界の外でクロムが笑う気配がした。きっと、見通されている。
「イツキ、手を」
「……ん」
 余計なことを言わないクロムに、笑うなよと文句は言えない。素っ気ない返事を一つ。言われるままに緩く手を繋いで、二人揃ってイドラスフィアへ立ち入った。
 複数階層から成るイドラスフィアを隈なく探すとなると、今からでは夜が更けてしまう。「面倒なところは後回しにしようか」といくつかの階を飛ばして、ゆっくりとした歩調で見て回る。
「本当になにも思い浮かばないのか」
「全く無いってわけじゃないけど」
 本当に些細な、自力でどうにだってなるであろう望みならたくさんある。だからこそ宝箱を探すまでもないと思っていた。もしかしたら、宝箱は見つからないかもしれない。
 あるとしたら、クロムの存在だろう。
 樹のミラージュで、大切な相棒で、とても好きな人。
 繋いだ手に胸を高鳴らすほど初心ではないけれど、心地よくて、離したくないと思う。
 そこではたと気がついた。
 突如現れたイドラスフィアだったが、最奥のミラージュを倒して以降、赤いローブ姿を見ることはなくなっている。おかげで宝探しも気楽だ。ミラージュも人間も、襲われる心配なく存分に探索ができる。だからクロムもカルネージに姿を変えることなく、樹と並んで歩くことができる。宝箱を探し始めてから、これは滅多にないことだと樹は気づいた。
 この状況は、意図していなかったが、確かに望みの一つだと言える。
「こうやって二人になると、クロムはよく手を繋いでくれるだろ」
 ぎゅっと指に力を入れる。剣を握っているクロムの手が樹に触れる時、その心地は言い得ない。優しく、力強く、はたまた繊細で、包み込むようで。知った言葉のどれもがしっくりこない気がする。ただ、それはそれで良いと思っていた。湧き上がる感覚は樹だけのもので、伝える意味はない。結局、知ってもらうなら一つの事実で十分だ。
「好きなんだ」
 一番シンプルで、飾り気のない言葉。溢れてこぼれた言葉は樹を気恥ずかしくさせた。
「えっと、だから、クロムとこうしてるだけで、俺の望みは叶ってるのかもしれないって思って」
 誤魔化すように大げさに笑って見せる。
「それは、俺の望みだな」クロムが苦笑しつつ、次の階層への扉を開けた。「俺がイツキに触れたくて、しているんだ」
「じゃあ一緒だよ」
 樹の反論に返事がなかった。不自然な沈黙に首を傾げると、扉の先、階段の上をクロムが指し示した。
「イツキ、あれじゃないか?」
 最奥の六層目に、以前にはなかった青い宝箱がふわふわと浮かんでいる。樹は目を丸くした。まさか、本当に見つかるなんて。
「そうかも」
 以前、つばさと霧亜に同行した際に見つけたものと酷似している。きっとクロムが見つけた物も同じ形をしていたのだろう。「やったな。見つけたぞ。早く開けよう」と急かす声は期待に溢れている。当事者の俺よりもよっぽどわくわくしてるな、と樹は笑いを堪えつつ、手をかざした。軽い破裂音と共に開いた箱の底には、カードが無造作に置かれていた。
「なんだ、これ」
 名刺サイズの、プラスチックのカード。表はショッキングピンクに三桁の数字と下向きの三角形、裏は真っ白で無地。
「なにかわかるか?」
「たぶん、鍵かな。扉に差し込んで使うんだけど……」
 ホテルのカードキーのようだ。でも、どこのホテルだろう。
 このイドラスフィアで手に入るものは、これまでの事例を鑑みると二種類ある。一つは即物的なもの。チキやクロムの前に現れたものがそうだ。もう一つは、望みを叶える手助けになるもの。つばさも霧亜も、それそのものを手に入れたがっていたのではない。決心のきっかけにしかならなかった。
 このカードは後者だろうか。しかし、樹はホテルに関係した望みなんてあったっけな、と思い当たるものがない。
 唸ってカードの観察を続ける樹に、「俺が得たタブレットは」とクロムが口を開く。「この世界でしか使えなかった。というより、ブルームパレスに持ち帰ろうとゲートを抜けたところで消えてしまった。またここに来ればいつでも見ることはできるが……」
 言うなり、音もなくクロムの手の中にタブレット端末が現れた。そこに記録されているデータの存在を思い出して、樹は慌てる。
「だ、出さなくていいから。しまって」
 首をかしげながらも、クロムは言われた通りにタブレットを消した。この反応からして、やはりクロムは樹が気恥ずかしい思いをしているとは露ほども知らないのだろう。けろりとした様子で話を続ける。
「つまり、このカードもこの世界でしか使えないんじゃないか?」
「カードが差し込める扉がどこかにあるってことか……最初から扉を出してくれたらいいのに」
「宝箱に入る大きさの限界があるんじゃないか」
 そういう物理法則は無視できないのか。先ほどクロムの手の中で消えたタブレットの存在を思って、樹は面倒なシステムだなあとぼやいた。
「扉、なあ」
 つぶやきながら辺りを見回した樹の表情は渋い。それもそのはず。このイドラスフィアには各階に扉が点在している。相当な数があるはずだ。
「そもそも、カードキーが入るような扉なんてあったかなあ」
 とカードを眺める樹の傍ら、踵を返したクロムが「あっ」と声を上げた。
「あった」
「え?」
 遅れて樹も振り返る。クロムが、今まさに開けようとしていた扉に、差込口がついている。この部屋に入る時に通過した扉に、だ。
「さっきはついてなかった、よな」
「そのはずだ」
 考えても仕方ない。樹は三角の指す方向へカードを差し込む。短い電子音が鳴る。樹とクロムは顔を見合わせてから、そっと扉を開いた。
 樹の想像通り、扉の向こうはホテルの一室のようだった。ベッドがあって、簡易的なテーブルセットがあって、テレビがあって、浴室がある。設備自体はよくあるビジネスホテルそのままだ。一つ、おかしな点を除けば。
 それが樹を釘付けにした。
 部屋の入口に立ち尽くす樹をよそに、クロムはきょろきょろと室内を見回している。
「疲れていたのか、イツキ」
「えっ?」
「休息のための部屋のようだと思ってな」
「ああ、うん、そうだな……」
 歯切れの悪い返事になったのを自覚する。クロムには不審に思われたかもしれないが、既に樹の頭は全く違うことを考え始めていた。
 クロムは休息と言った。それを口実にできる。
「俺、シャワー浴びるから」
 そう言って、樹はようやく足を動かした。根が生えていたか、鉛にでもなっていたか。とにかく重い両足だった。
「時間かかるかもしれないけど、そこで待ってて」
 ベッドを指した樹に、クロムはなんの迷いもなく素直に頷いた。

 浴室に入った樹は室内を見回すと、まずシャワーカーテンを閉めた。というのも、本来なら壁で隔てられている客室と浴室が、ガラス張りになっていた。樹が部屋に入ってまずぎょっとしたのが、このガラスで囲われた浴室だった。カーテンがあってよかったと心の底から思う。クロムがこちらに背を向けてベッドに腰掛けた様子は確認していたが、なにかのきっかけで振り返ってもおかしくない。
 見られるのは嫌だった。特に、これからすることを考えると。並んだボトルの中に端座するものを見て、静かにしゃがみ込んだ。本当は思い切り壁に頭突きでもしてやりたかったが、音を聞きつけたクロムが心配して飛び込んでくる可能性に思い至って堪えた。代わりに大きなため息をつく。
 やっぱりここは、単なるホテルじゃない。頭に血が登って、真っ赤になるのを自覚した。ついさっきまで、クロムと一緒にいるだけでいいと思っていたのに。隣を歩いて、手を繋いで、それだけで幸せだと。いや、この感情は嘘じゃない。ただ、満足していなかった。心の奥底でその先を望んでいたから、このカードが現れたのだ。自分自身気づいていなかった深層心理を満たすために。現に、樹は嫌だとはこれっぽっちも感じていない。むしろ、即座に千載一遇のチャンスだと直感した。
 小さく息を呑む。立ち上がった樹は、意を決してローションボトルに手を伸ばした。



「疲れすぎて湯を浴びながら寝ているんじゃないかと思ったぞ」
「あ、はは。さすがに、そんなことしないよ」
 しばらく経って姿を現した樹を見、ベッドに腰掛けていたクロムは深く息をついた。どうやら心配をかけていたらしい。笑いながら否定をした樹の思考は、まだ別の場所にある。
 本当に眠ってしまえればいいのに、と思う一方で、こんな機会を逃してたまるかとも思う。さっきから情緒が不安定だ。それもこれも、全部、クロムが悪い。日本の文化を知らないばっかりに、全く察しの悪いクロムが。そんなひどい責任転嫁をしても、樹の心は重量を変えない。
 ここで、ゆっくり浸かって疲れを癒してたんだとでも言えば、クロムは素直にそうかと頷くに違いない。そうしたら気が済むまでこの部屋で寛いで、折を見て事務所に帰ればいい。幻想の世界を抜けてしまえば、いつもと変わらない日常に戻れる。
 だが、それは逃げだ。
 深層心理を映し出す鏡のような宝箱。ただし、中身をどうするかは使い手次第。宝箱は樹の背中を押しはすれど胸のうちを暴くことはない。優しくもあるし厳しくもある。結局のところ、現実世界に逃げ帰るかどうかは自分次第だ。
 決心がつかないまま、クロムの元へ歩み寄る。今日は学校が終わって、レッスンに直行して、そのまま事務所に来たから制服のままだ。ブレザーはシャワーを浴びる前にハンガーにかけたきりで、しっかりボタンを留める気になれなかったワイシャツは胸元まで開けていて、スリッパがあるから今は裸足で。着崩した樹を見上げるクロムの感情は、測れない。
 投げやりな気持ちになって、樹はくるりと背中を向けると座っているクロムの足の間に体を収めた。クロムもクロムで意図が掴めなかったのだろう。「どうした?」と驚き半分の真っ当な問いを投げられる。いつも通りを装って「なんでも」と答えれば、それ以上の追及はない。
 部屋に沈黙が落ちる。樹の頭はずっと回り続けている。どんな言葉をかけたらいいだろう。どんな顔を見せたらいいだろう。クロムはどう答えるだろう。堂々巡りの思考に神経が巻き込まれていく。
 だから、気づくのが遅れた。耳元で金属が擦れる音。それに反射するよう、ほとんど同時に、どく、と心臓が鳴った。
「イツキ、髪が濡れたままだ」
 籠手のままクロムが樹の髪に触れた。一度、ひときわ強い鼓動をした後も、心臓は走り続けている。
「あ、うん。ドライヤーが面倒で」
「俺にやらせてくれ」
 肩にかけていたタオルを手にとって、クロムは頭をがしがしとかき混ぜる。乱暴なようで優しい手つき。気持ちよくなって目を閉じる。本当に、このまま眠ってしまえそうだけど、もう、この脈動は落ち着きを取り戻せそうにない。
「あのさ、クロムは」
 俺のこと、なんとも思わないの。そんな曖昧な問いかけすらできない。どうやって切り出したらいいのかわからない。踏ん切りがつかない自分を意気地無しだと苛んで、別の言葉を発する。
「俺が寝たら、その間どうする?」
「ここにいる。何事もないとは思うが、マスターを守るのが俺の役目だ」
「そっか」
 あらかた拭き終わったらしい。「よし」という満足げな声と共に頭から手が離れる。
「俺は」とん、と背中を預ける。「クロムと一緒がいい」
「ん? 一緒に寝たいのか?」
 そう。そういうことだけど、意味が違うんだよな。案の定通じなかった真意に思わず笑ってしまう。
「それもいいけど」
 クロムが樹の顔を覗きこむ。じっと樹を見つめる瞳は優しくて、なにも言えなくなる。
 樹の胸の芯には既に火が灯っている。欲に忠実な身体は我慢できないと鼓動を続けている。言葉が紡げないなら、動けばいい。樹が見つけたのは、シンプルな解法だった。
 身を捩ってクロムの両肩に手を置いた。
「クロム」
 声に色が滲んでいた。自分でもそう感じるくらいだ、呼ばれた方も察するだろう。布越しに唇を押し当てると、クロムは当然のようにマスクを外した。もう一度、今度は直に触れ合う。唇を食む口づけ。背筋にやわい電流が走って、脳が溶けてしまうような甘美な口づけ。触れるたび、自分がどれだけクロムに大切にされているのかを感じて胸がいっぱいになる。
 けれど、樹は貪欲になってしまった。
「俺は、クロムとならキスの先だってしたい」
 甘いだけの時間に終わりを告げる。
「クロム。俺の願い、叶えて」
 吐息が混ざる距離。小さく息を飲んだのは、どちらだっただろう。
「俺とセックスして」
 一度、瞬いた。今のって驚いたのかな、と思った時には、クロムはもう、真剣な眼差しで樹を見つめていた。
「イツキに触れるのは好きだ」
「でも、こういう触れ合いは嫌だってこと?」
「いいや……もっと触れたい、と思う」
 喉に小骨が引っかかったような煮えきらない言い方をする。
「なにがだめなんだ?」
「イツキの望むような性交にはならない、かもしれない」
「そんなの」
 クロムは本当に心配性だ。その心配が、自信の無さではなく優しさだと知っている。きっと、怖いのだろう。クロムはミラージュで樹は人間だ。姿形が似ているとはいえ、つまりは種族が違う。快感どころか傷つけるかもしれない。そんなことを考えているに違いない。
 だから、樹はクロムの手を握った。初めて握手を交わした時も、カルネージとして共に戦う時も、理由もなく手を繋いだ時も、この大きな手から感じるクロムの存在を疑ったことはない。
「言っておくけど俺は初めてだし、クロムは……どうかわからないけど、記憶がないんだから似たようなもんだろ。下手も失敗もないよ」
 
「俺の願い事、叶えてくれるのはクロムだけなんだよ」
 懇願か、強要か、それとも。
 クロムは一度、樹の手をぎゅっと握り返した。それから離して、今度は手首を取って、手のひらの真ん中にキスをした。
 なにかの誓いをするかのような口づけ。たっぷり三つ数えて、クロムは伏せていた目を、まっすぐに樹へ向けた。
「正直、勝手がわからない」
 籠手が外される。ベッドの外に落とした硬い金属の音が部屋に響いた。本来なら場違いなその音が背筋を震わせた。装備を外している。直に触れるために。
「だから、どうしたらいいか教えてくれ」
 相変わらず、情欲の色はよくわからない。ただ、クロムが樹と向き合おうとしていることだけは、確かめるまでもなかった。


 樹はふわふわとした感覚のさなか、クロムの頬に触れた。真夜中を映した暗い肌の色。じんわりと指先を温める体温。青白くきらめく双眸。
 樹の一番好きな人に触れている。
 ふにゃ、と頬が緩む。
「おれ、クロムと、セックスして、る」
 ほとんど無意識のつぶやきだった。
「イツキ」
 と。かわいた低い声が耳の奥に届いた。
 そこからのことは、樹はあまり覚えていない。気持ちがよすぎて訳がわからなくなっていた、というのが一番妥当なところだが、それはそれでおかしな話だ。
 そう、おかしい。普通に考えたらおかしい。初めて体を繋げたのに、なぜこんなに気持ちよくなれるのだろう。それもあんなに優しく、ガラスを扱うように触れられたのに、前後不覚になるほどの快感を得られるとは思えない。無意識の願望を叶える形になったとはいえ、これまで、樹はクロムとのセックスを全く考えなかったわけではない。好きな人とひとつになりたいと思うのは男子高校生としては一般的だ。樹も例に漏れず、ただ、その相手が同性の場合はどうしたらいいだろう、とスマホをタップしたことがあった。検索結果で目についたのは、最初から快感を得るのは難しいということだった。いろいろと生々しい体験談を閲覧して青くなったり赤くなったりした樹だったが、言われてみればと納得する。女の子が相手でも最初からうまくいくとは限らない。同性だったらなおさらで、ましてクロムは人間ではない。物理的に不可能、なんてこともあり得る。
 そこまで考えてから、そもそもミラージュであるクロムと一緒にベッドに入れる場所なんてないんだから無用な心配だったなと思い直したのだった。

 気がついたら、下半身になんともいえない気怠さだけを残して、クロムは元のようにベッドに腰掛けていた。なんで覚えていないんだろうとか、物足りないとか、クロムはイかなかったのかとか、頭の中はますますぐしゃぐしゃで。言葉を発せない樹を見て、クロムは勘違いしたのだろう。柔らかく微笑んでそっと頭を撫でた。
「落ち着いて。深呼吸だ」
 慈愛に満ちたその目に見つめられると、どれほど愛されているのか実感する。ただ、劣情の気配はどこにもなかった。 一度触れてしまうと、もっと貪欲になる。この次に期待して、その先を欲してしまう。自分のように、前後不覚に陥って、ただただ求めてほしい。理知的なクロムを見ていると、そんな欲望が膨らんだ。もしかしたら覚えていないだけかもしれないけれど。
 「ごめん、とんでたみたいだ」と口にしてから、樹は次のクロムの言葉を確信して「待って今の無し!」と首を振った。その声が思いの外大きくなってしまって、クロムだけでなく樹自身までも驚愕に息が詰まる。一拍置いて、クロムが吹き出した。
「その調子なら、大丈夫そうだな」
「う、うん。ちょっとだるいくらい、痛いとこもないよ」
 ベッドから体を起こすこともできる。性行為に及んだなんて夢と勘違いしてもおかしくない。情事の名残りはほとんどなかった。
 笑われてしまったのは恥ずかしいけど、これはこれでよかった。余韻があったらクロムの顔なんて見れなかったかもしれないし、あのまま会話が続いていたら、クロムは「俺がもっと気をつけていれば意識を飛ばすようなことは」と落ち込んでしまうところだっただろう。
「ところでイツキ、時間は大丈夫か?」
 現に、クロムはすっかりいつもの調子で樹のスケジュールを気にしている。
「ちょっと急いだほうがいいかも。簡単に体洗ってくる」
 ベッドから下りて制服を拾おうとした樹は、目を丸くした。脱ぎ散らしたはずの制服が、ベッドの隅できちんと畳まれている。間違いなくクロムの仕業だ。ちまちまと畳んでいる姿は可笑しなようで、愛しくもある。浴室へ駆け込む直前にブレーキを掛けた。
「あのさ、クロム」
 一つ、今言わなければならないことがある。
 この願いは、宝箱が与えたわけでも、樹が努力した結果でもない。他でもないクロムが叶えてくれた。
「願い事、叶えてくれてありがと」


 浴室から出た時には、クロムはマントも籠手も装備した、元の姿に戻っていた。樹もブレザーに袖を通して、スマホで時間を確認する。19時を少し過ぎたところだった。電車の時間を調べて、家に帰宅時間を連絡する。今までと同じ、日常に戻っていく。
 だが、その前に。部屋を出たところで、樹はクロムにカードを差し出した。
「クロムがまたあの部屋に行きたくなったら、カードを俺に渡してくれる?」
 目を丸くしたクロムは「わかった」とカードを受け取る。その声はいつも通りの落ち着いた響きで、やはりなにを考えているかわからない。それを不安に思ったわけではないが、しっかり釘は刺しておく。
「言っておくけど、もうしないなんて無しだからな」
 じろりと睨み上げたのはわざと。あくまで、クロムがしたいと思った時に誘ってほしいだけだということを言外に伝える。一拍置いて、クロムが再び了承する。今度は少し緊張を滲ませていた。その感情の変化を良しとして、樹は最後ににっこりと笑ってみせた。
「いつでもいいよ。クロムが誘ってくれるの、楽しみにしてる」
 もう、返事を聞く必要はなかった。
 クロムの手の中でカードが姿を消す。振り返るとノブのそばにあった差込口は消えていて、すっかり元通りの、ただの扉になっていた。



 クロムはずっと悩んでいた。
 樹に手渡されたピンクのカード。イドラスフィア外では物体として存在しない宝箱の中身は、見えないまでもクロムの手に握られている。それをずっと手慰みにしていた。
 悩んでいる。ともすれば、四六時中考え込むほど、カードのことが頭から離れない。
 クロムは、ブルームパレスに集うミラージュの中では経歴が短い方にあたる。人間社会やマスターとの関わりの中で直面した疑問や悩みは、その都度他のミラージュ達に投げかけて問題の解決をはかってきた。だが、今回ばかりは尋ねられない。マスターと体を重ねるタイミングがわからない、と相談できるわけがない。クロムが恥を忍ぶだけならまだしも、樹は、絶対に良くない。あまりの羞恥心で消えて無くなってもおかしくない。
 そんなわけで、クロムは自分ひとりで何度も問題を反芻していた。消去法で――つまり、樹のスケジュールに余裕がある時やブルームパレスの人気がなくなる時を見計らって誘うこともできたが、樹はそれを望んでカードを託したわけではないだろう。クロムが行きたくなったら、と樹は言った。一方で、いつでもいい、という言葉を額面通りに受け取っていいはずがない。樹には学校も、レッスンも、収録もある。そして、ここのところはあまりないが、ミラージュ絡みの事件があれば戦いのステージに立たなければならない。多忙を極める高校生なのだ。
 またこれは全くの偶然ではあったが、あれから二人きりの時間を作ることができずにいた。指を絡ませることすらない。端的に言ってタイミングがない。

 そんな葛藤はお構いなしに、樹とクロムの日常は巡る。
 イドラスフィアの夜から十を数えようかという頃、樹のTOPICがけたたましく鳴った。ミラージュによる芸能人への被害。久しぶりの、ミラージュマスターとしてのステージだった。
 メンバーが幾人揃っていようと樹は必ず先陣を切る。それが、今回はうまくはまっていなかった。一撃目から手応えがない。
「くそっ……手強いな」
 端的に言って、相性が悪い。
「イツキ、交代した方がいい」
 ちらりとステージの外を見る。カルネージフォーム姿のまもりが樹を見上げ、力強く頷いた。ここは素直に退いた方がいい。あとは頼んだ、と声をかけてステージからひとっ飛びで降りる。入れ替わりで駆け上がる少女の後ろ姿が頼もしい。どうも、樹は自分が退くことが頭から抜けてしまう。ロードなのだから、と無意識のうちに気負っているのかもしれない。
「っと……うわっ!」
 足がもつれた樹が体勢を崩す。クロムは慌ててカルネージを解き、傾いだ身体を受け止めた。とん、と軽く胸に収まる。
「気をつけろイツキ」
「はは……ごめん。ちょっと粘り過ぎたかな。体が重くて」
 軽い口調で謝る樹は顔をあげない。縋りつくように両手と額を胸に当てたまま固まっている。
「イツキ? どこか悪いのか?」
 もしや足をひねったか、はたまた顔をあげられないほどに消耗しているのか。腰に腕を回してその場にしゃがみ込む。
「ううん、大丈夫だから」
「顔を見せてみろ」
「まって、クロム、」
 樹の制止を無視して頬に手を添える。ようやく窺えた顔は、赤く染まり、瞳は熱を帯びていた。
 その瞬間、ぞわ、と。なにかが全身を駆け巡った。
 強い感覚は二度目だった。この得体のしれないものを、あの時のクロムはおののきだと思った。だが、違う。これは欲望だ。望みなんて可愛いものじゃない。もっと、独りよがりで、底知れない沼のように。衝動のまま顎を捕らえた。
「いっ」
 抗議の声はクロムの口の中に吸い込まれた。くちゅ、と可愛らしい水音に対して触れ合いは深い。さ迷う手を握りしめる。あれ以来、指を絡めることすらなかった。樹に触れたのは、あの夜以来だった。
 次のカードはクロムが握っている。
「この後」潤んだ樹の目が瞬く。「いいか」
 樹は目を丸くして、唇をわななかせた。ほんのりと染まっていた頬が鮮やかさを増す。目を伏せて視線を外す。瞬きの音さえ聞こえるほどの距離。たっぷり十を数えた末に樹はかすかに頷いた。返答にいやに時間をかけたのは逡巡ではない。恥じらいだ。
 ステージの上から歓声が降る。ミラージュを討伐したのだろう。それが遠く聞こえた。照明の届かない舞台袖、交わした
密約は二人だけのもの。

 許可を求めているくせに断定的な物言いだ。己を俯瞰して、そう思った。



 いつかと同じく、手を繋いでイドラスフィアに立ち入る。目的の部屋に入るまで言葉はなかった。件の部屋に入ると、樹は「俺、準備するから」と言う。そそくさと浴室に逃げ込もうとする背中に声をかけると、おもしろいくらいに跳ねた。拒絶ではなく緊張の証だとわかっている。だって、樹は耳まで赤く染めている。
「慌てなくていい。待っている」
「う、ん。わかった」
 手伝いを申し出ることもできたが、あの様子では逆効果だろう。樹には一人になる時間が必要に思えたし、それはクロムも同様だった。
 浴室に背を向けてベッドに腰掛ける。背後でカーテンが引かれる音を聞いてから、クロムは深く息をついてうなだれた。
 大失態だ。
 戦いのさなか、仲間達がすぐそこにいる状況で、あれはまずかった。衝動のままに樹の唇を奪うなんてあってはならない。カルネージとしても想い人としても失格だ。
 それに、行為に及ぶ前に伝えなければならないことがある。
 果たして樹は、前回と同じように制服を着崩して出てきた。体を流しただけなのか髪は乾いている。ドライヤーを当てるのが楽しかったクロムは、それを少し残念に思った。
 座ったクロムの目の前に立った樹の面持ちは、緊張と恥じらいで固まっていたが、その奥になにか決意のようなものが見えた。
「この前から気になってることがあって、聞かせてほしいんだけど」
 樹も、考えていたのだろう。
「クロムは、俺とセックス、できる?」
 一度目も似たようなことを言われた。だが意味は異なる。知りたがっているのは、可能か不可能か。それはつまり。
「人間と同じように快楽を得ることができるかどうか、か?」
 樹が静かに頷く。
 それこそ、クロムが樹に伝えようとしていたことだった。深呼吸を一つ。
「ミラージュには睡眠も食事も、性交も不要だ。人間のように射精をしたり達したり、ということはおそらくない。だから、不安だった。イツキの想いに応えることができないんじゃないかと」
 最初に渋ったのもそれが理由の一つだった。
「だが、どうやら性欲はあるらしい」
 初めて身体を重ねた時、この行為にどんな意味があるのだろうと思った。クロムは薄々予感をしていた。生物としてつくりが全く異なる人間とミラージュでは、身体を繋げても快楽を得られないだろうと。そしてその通りだった。それ自体に不満があるわけではない。ただ、二人で気持ち良くなりたいと言った樹の想いに応えられないのが、裏切りのようで辛かった。
 だが、あの一言。恍惚と微笑んで、樹が「クロムとセックスしてる」と漏らした時、激しい情動に駆られた。
 ミラージュに肉体接触そのもので快感を得る機能はない。精神衝動が、そのまま快楽に変わる。

 そして、クロムはその情動を拒絶した。咄嗟に、この劣情を樹にぶつけてはいけないと判断した。
「今にして思えば、イツキが意識を飛ばしてしまったのはそのせいだったのだろう。俺達ミラージュがマスターの五感を共有するように、マスターがミラージュの感覚を受け取ってしまった。俺が……このままイツキを抱いてはいけないと、拒絶した感情の分をまるごと」
 その結果、樹の精神のキャパシティを超えてしまった。強制的に繋がりを断つべく、意識を失ったのだろう。
「拒絶したのは、どうして?」
 樹の表情に憂いはない。ただ純粋に、真実を捉えようとしている。その姿勢が、美しく、まばゆささえ感じた。
「イツキとの触れ合いが嫌だったわけじゃない。思い出したんだ」
 正確には思い出したわけではないが、他に言いようがない。記憶はないが、感情の波に覚えがあった。胸の奥が錆びついたかのように軋む。
「あの渇望は、パフォーマを奪うだけの傀儡だった頃の本能と酷似していた」
「違う」
 クロムの吐露を樹は即座に否定した。
「それは、絶対に違う。同じじゃない」
 射抜かれるような力強い眼が、確信を与えてくれる。
「イツキならば、そう言ってくれると信じていた」
 
「あの時駄目だと拒絶したのは反射だったと思う。今は、駄目だなんて思っていない」
 そう思えるのは、樹が自身の思いを包み隠さず見せてくれたからだった。相手への思い遣りも、自分の下心も、なにもかも引っくるめて。全てを見せるのは相当な覚悟がいっただろう。だからこそ、クロムは嬉しかったし、受け入れた。
「今度はイツキと気持ちよくなりたい」
「俺も、そう思ってる」
 樹が片膝をベッドに乗せた。両腕を薄い背に回す。なよやかな指がマスクに触れる。顔を近づけたのは双方だった。ゆっくりと唇に触れた唇は甘すぎる。すると、樹がくすくすと笑った。
「クロムのしたいこと、教えて」
 それは、情欲が滲んだ声だった。
 瞬きの後、樹の唇に噛みついた。思えば、初めての時は前戯どころかキスさえろくにしていなかった。全くひどい初夜だ。だからといって、この夜が、樹にとって甘く優しい行為になるわけではない。現に、クロムは樹の全てを食らい尽くすつもりで口内を犯している。
「くるし、なあ、もう」
 既に酸欠ぎみに肩で息をしている。紅潮した頬ととろりと潤んだ瞳で訴えられても、クロムは昂ぶるばかりで、首筋に吸い付く。キスマークを何度も甘噛みする。
「俺は足りない」
 足りないと思ったのも、初めてだった。パフォーマは人間でいうところの食事に近いが、食事そのものではない。エネルギー補給だ。
 以前、そんな話をしたら「点滴みたいな感じかな」と樹は呟いた。テンテキという言葉の意味を尋ねて、まさしくそれだと返したのをクロムは覚えている。エネルギー源でしかないパフォーマに味はしない。もしくは、ミラージュの味覚がパフォーマの味を察知できないのかもしれない。わかるのは質の程度くらいだ。当然食感もない。身体に取り込んで、充たされた感覚だけで食事は終わる。そこに疑問が湧いたことも不満を抱いたこともなかった。
 だから、樹との交わりは毒のようだった。
 健康的な肌の色も、熱を持った口内も、あだっぽく鳴く声も、柔らかい内側の肉も。パフォーマを求めるときとは全く異なる欲求がわき上がる。うまそうだと。すべて食らいつくして、ものにしたくなる。
 単純さでいえば、傀儡としてパフォーマを求めたのと大差はない。人間の背中を追いかけたのは生存本能と同じだった。決定的な隔たりは、今は目の前にある少年の細い背中に、肉欲をぶつけていること。
 クロムは、記憶が完全に戻らない限り、自分の存在が善であるという確信を持てない。ただ、樹と共にあって、樹のミラージュである限りは、道を違えまいと力強く頷くことができた。
 それが、どうだろう。樹を目の前にして、クロムの胸に歪みが生じている。支配。独占。束縛。それを悪だと断ずるつもりはないけれど、決して綺麗なものではない。
 すっぽりと腕の中に収まる肢体。細く、小さく、弱々しささえ覚える。少し力を入れるだけで砕け散りそうで。大切にしてきた。大切にしたい。これからもずっと。
 だが、今ばかりは、できそうになかった。

webイベント用に全年齢向けで公開してました。R18版は本にします…できるだけはやく…
210523

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