無数の雫がビルのガラスを叩いている。自動ドアを抜けて事務所に入った樹は、足を止めずに直進する。右肩に通学鞄、左手にビニール傘を持ったまま、青い扉に手をかけた。放課後、学校から事務所への道のりはひどい雨模様だった。
 早足で飛び込んだブルームパレスは、いつも暖かな光が差し込んでいる。この異界は外の天気とは無縁だ。ふう、と息をついて樹は歩みを緩めた。飛び石を越えた先、渇いた草の上に躊躇わず腰を下ろす。傍らに置いた鞄から水滴が落ちて、地面の色を濃くした。
「少し濡れてしまったな」
 声の方に顔を向ける。学校から同行していたクロムがいつの間にか姿を現している。なんの変哲もない、いつも通りのクロムの姿を認めた樹だったが、今日に限っては苦笑が漏れた。
「いいなあ、クロムは雨なんて関係なくて」
 樹に倣って地面に座り込んだクロムは、どこも濡れていない。当然だ。樹達の現実である世界で姿を見せないミラージュに東京の雨なんて関係ない。わかりきっていても、今はそれを羨ましく思った。
「傘差してたのに、鞄も足元もべちゃべちゃだよ」
 鞄のファスナーを引いて中身を検める。隅にタオルを詰め込んだおかげか、雨水は浸透していないようだ。安堵の息をつくと、そのタオルを引っ張り出し足首を拭った。濡れないようにと裾を何重にも捲くったスラックスは無事だが、足は泥交じりの雨で汚れてしまった。
 その様子を間近で見ていたクロムは、首を振った。
「いや、俺はすごいと思ったぞ」
「え?」
 笑いながらも拗ねるような言い方をした樹は、クロムなら慰めか、なだめるだろうと予測している。ところが、全く異なる言葉が返ってきた。思わず手を止めてクロムを見上げる。
「なにが?」
「この雨脚で、その程度しか濡れなかったことだ」
「そうかな? 結構べちゃべちゃだよ」
「傘が無ければ濡れ鼠だっただろう」
 そこで、樹はクロムの感心が何なのかを察した。鞄の隣に置いたビニール傘を手に取り、クロムに差し出す。
「もしかして、クロム達の世界って傘なかった?」
「ああ、初めて見た」
 樹が使う姿を観察していたクロムは傘の使い方を知っている。事も無げに傘を開いたクロムが、機嫌良く中棒を肩に置く。様になっている。だがその様子は、樹の目にはかえって違和感があるように映った。
「軽いし、簡単に扱える。便利だな」
「クロム達は雨の日はどうしてたんだ? 覚えてたら教えてほしいんだけど」
「外套を被っていたのは記憶にあるな」
「外套?」
 想像が出来ずに聞き返すと、少し考える素振りを見せたクロムが自身のマントを持ち上げた。
「こう、頭と肩を覆うようにして」
 と、実演する姿を見、なるほどと樹は納得した。傘を忘れた時はブレザーを被って走ることもあるが、凌げたものじゃないと知っている。それと似たようなものだろう。
「それだと思いっきり濡れるよな」
「いや、本来はもう少し雨を弾く……革なんかを使っていたと思う。それでも濡れるし、重くて持ちづらい」
「へえ……」
「俺達の世界にも傘があれば、と思うよ」
 あまり聞くことのない異世界の文化に触れて樹は感嘆する。同時に、改めて、クロムは交わるはずのなかった存在なのだと認識した。
 それを今更、寂しいことだと感じた。
 断片的に思い起こすクロムの記憶は、本人にとっては喜ばしい以外の何物でもないはずなのに、隔たりとなっていく。小さな溝が積み重なって、徐々に距離が離れていくような感覚。いや、本来は、元々あって然るべき隔たりなのだけど。
「……ああ、だが」とクロムが声を上げた。「あれは同じだな」
「同じって?」
「一つの傘を分け合っていた人がいただろう。あれと似たようなことができる」
 クロムは再びマントを掲げた。しかし今度は、空いているもう片方の腕を肩に回され、そのまま引き寄せられる。樹の頭の上にクロムのマントが被さった。
 これは、つまり。
「……相合い外套」
「うん?」
「いや、なんでも!」
 ブルームパレスの陽光の下、樹とクロムは肩をぴたりとつけることができる。笑いがこみ上げて、樹も腕を上げてマントを掲げた。

フォロワーさんのイラストを見て、梅雨のロードコンビ書きてえ!てなって久しぶりに1時間執筆チャレンジ。記録は75分でしたが。
ビニ傘が似合わないミラクロさん可愛い。
220627

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