軋む扉を開けると、冬の夜の、冷たい風が頬を打ちつけた。毎度のことながらこいつには慣れない。首をすくめて扉を後ろ手に閉める。顔を上げたその先には、よく知った人影があった。
「お掃除お疲れさん」
「ああ」
 事務所の屋上にいたのはMZDだった。裏の掃除が終わった後は、ここで一服するのが俺の習慣。MZDはそれを知っていて、しょっちゅう待ち伏せをする。来るなと言っても聞かないから、もう好きなようにさせていた。
 近づいて見たMZDは、日中に会う時よりも目線が高くなっている。顔立ちも大人びていて、少年とは呼べない年齢だ。ここに来る時は必ずこの青年の姿をしていて、本人曰く、夜はオトナの時間だから、とか何とか。その外見はやっぱり、回数を重ねても、少し違和感がある。「怪我してない?」
「してたらここに来れねえよ」
「そりゃそうだ」
 意味のない会話をしながら、手にしていたケースから煙草を一本出していつものライターを探す。ジャケット、ズボン、胸ポケットと順番に触るが感触がない。もしかして、事務所に置いてきたのか。
 取りに戻るのは面倒くさい。仕方ないから、「あー」と呻きながら声をかける。
「MZD、火貸してくれねぇか」
「忘れちゃったのか? うっかりさんだなミスターは」
 ケラケラ笑いながらMZDが腕を伸ばした。その手から受け取ったのは黒い塊。ブラックのジッポーは、シンプルだが高級感があった。
「普段こんなモン使ってんのか」
「カッコいいだろ~」
 火を点けてからじっくりと眺める。表面の隅には金に輝く小さな悪魔、裏返すと、インナーに流れるような字で名前が彫ってある。そして側面には、荒々しいBLACK DEVILの文字。黒い悪魔。
「お前らしいデザインだな。特注か」
「いや、普通に売ってるぜ?」
 ジッポーを返す。いつの間にかMZDの手には、どこからともなく出した真っ黒な箱があった。かなり目立つパッケージ。銘柄は、BLACK DEVIL。ジッポーとお揃いってか。
 ケースから出てきたフィルムも真っ黒で、夜闇の中でも目が引かれる。MZDがそれに火を点けた。
「おい不良少年」
「この格好で少年はないだろ」
 まあ確かに、その通りだけど。
 そのまま、俺は手摺に背中をつけて、MZDは肘をついて。並んでそれぞれの煙草に口をつける。
 一度目は吹かすだけ、二度目は肺までしっかり吸い込んで、そうした時、猛烈な甘い香りがした。間違いなく、MZDの吸っている煙草の匂い。ヤニ臭さは少ないが、代わりの強烈なココナッツが鼻をつく。思わず隣を見るとニヤニヤしたMZDと目が合った。「なんだその匂い」
「ココナッツだけど?」
「強すぎるだろ!」
 飲食店で吸ったら喫煙席だろうと白い目で見られるだろう、甘ったるいココナッツの香り。俺が甘いものが苦手なことくらい知ってるくせに、なんのつもりだ。嫌がらせか。それしか考えられない。
「最近さ、あんまり会ってなかったじゃん」
「そうだな」
「んで、もうちょい忙しいから」
 そう言ったMZDの手の中に、星を撒き散らしながら小さな箱が現れる。ついさっき見たばかりの黒い悪魔。
「これで勘弁して、みたいな」
 ビニールがかかった未開封のブラックデビルを差し出された。が、受け取る気はない。
「……甘い物は苦手なんで」
「匂いよりは甘くねえから、大丈夫」
「信用できるか」
「えー」
 頬を膨らませて不満を伝える姿は、少年の時と変わらない。中身が同じだから当たり前といえば当たり前だが。
 頭の後ろをぐしゃぐしゃとかき回しているうちに、MZDは何かを思いついたらしい。さっきとは打って変わって、溌剌と「だったら」と声を上げた。
「味見すればいいんじゃね?」
 名案!と言わんばかりに、指をパチンと鳴らす。その途端に、MZDが持っていたケースと俺が持っていた煙草が消えた。まだ半分も吸ってなかったのに、勿体無い。 軽く睨みつけると、MZDはニヤリと笑い、宙に浮かび上がった。自分の煙草をくわえて、一息吸って、それを吐き出して、両手が頬に添えられた。
 されるがままにMZDを見上げる。目の前に迫る青年の顔。そのまま、静かに唇が重なった。軽い音をたてながら、ついばむようなキスが繰り返される。何度かのそれを受けて、少しだけ口を開けた。すぐに、咥内に舌が入り込む。唾液がぬめる感触と舌自体のざらつき、それに混ざるココナッツ。でもそれは、さっきの匂いより、優しい甘みだった。
「ど?」
 唇を離して、MZDは俺に聞く。
「嫌な甘みじゃないだろ」
「……まあ」
 確かに、甘ったるくはない、爽やかな風味だった。認めるのが少し癪で曖昧な返事をする。でもたぶん、この神様にはお見通しなんだろう。「そういうわけで、俺の代わりだと思って」
 ね、と再び差し出されるケース。理由はわかったが、その台詞は、ちょっと。
「寒くね?」
「うるせー!」
 そう吠えるMZDは、少し赤くなっている。それを紛らわせるように、MZDはぐいぐいとブラックデビルを押しつける。可哀想だったから受け取ったが、そんなに恥ずかしがるなら最初から言うなよ。
 わざとらしく咳払いをするMZDをしり目に、そっとため息をつく。こんな物が、こいつの代わりになるはずがない。
「わかってるって」
 そう思った瞬間に降ってきた声。ゆっくりと、顔を上げる。
「俺はいつでもお前のこと見てるし、今はそれで勘弁して」
「そりゃあ、とんだストーカーだ」
「相思相愛だから問題ないだろ?」
 まあな。口には出さずに同意すると、MZDは満足げに笑った。子供のような笑顔。きらきらと光る星を纏って、MZDは闇の中に消えた。
 残ったのは、神の代わりのココナッツ。金に輝く小さな悪魔は、あいつとよく似てる。だけどあの男は、悪魔と呼ぶには優しすぎる。 優しい優しい神様だ。

人様への捧げもの。青年MZDもいいよねっていう。タイトルはSmokinJoeって煙草をもじって。
130211

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