雨が降り出した。

 山の気候は変わりやすいというが全くその通りで、ぽつりぽつりという弱々しい音は、ほんの二、三分でざあざあという激しい音に変わった。木々から垣間見る黒雲は分厚く、再び天道を拝むに時間を要することは必須のようである。登山中はどうにか保ったものの、目的も果たしさて帰ろうかと下り始めたところで、地の色が変わった。山袖の町で天を見上げたおりには美しい青の晴天だったのが、このさま。
 落ちる大粒の滴は重い。濡れた斜面を下る足も重い。

 一京がその小屋に入ったのは、そのためだった。
 ひらけた山中にぽつんと建つ木造の小屋。古くからあるのか、外観は薄汚れている。小屋は一時の休息のために作られたようで、入口に扉はない。中は壁際に長椅子が並べてあるのみ。天井に張った蜘蛛の巣や屋根に積もった落ち葉を見るかぎり、手入れが為されていないのもわかる。
 そんなことを気にする一京ではないのだが、小屋に踏み込んだ瞬間、彼はぎょっとした。
 入口から対角線の隅、長椅子にひとがたが転がっていた。
 人間か、と思ったが、すぐに違うとわかった。胴体と手足、それに首が繋がっていなかったからである。それが人間ならば、雨降りと言えど小屋に近づいただけで腐臭がする。一京はそれを知っている。
 ゆっくりと近づき、次にわかったのは、そのひとがたが木製の人形だということだった。人間と見紛うほどに大きいのだが間違いない。壁を向いた顔は見えないが、市松人形だろうか。髪は短く不揃いで、破れたとも千切られたとも見える着物を纏っている。無惨な人形の姿に、一京の眉は自然と歪んだ。
 むごいことを。
 苦々しく呟いて人形の前に立つ。市松人形は、気味悪がられることが多い。この人形も、不気味だという理由でこのような仕打ちを受けたに違いない。妙なリアリティを持った少女は大人も子供も怖がる。夜半過ぎに歩き回るだとか、いつの間にか髪が伸びているだとか、怪談も多い。本来の姿は、そんなものではないのに。
 一京は、手にしていた番傘を壁に立てかけた。せめて、はだけた着物だけでも整えてやろうとあわせめを直す。手足も、元に戻すことはできないが体に合わせて置く。最後に頭を手にとったところで、おや、とまばたいた。
 顔が、違っていた。目は丸い窪みが彫ってあり、口は絡繰り人形と同じ、顎がカタカタと動くものである。首を傾げながら、一京は首と体を合わせる。胴体の作りは市松人形で、頭の作りは絡繰り人形。あべこべな人形に、一京は思わず眉を下げた。
「なにやらあなたも、苦労の多い人生を送ってきたようですね」
 あなたほどではありませんが、私もですよ。
 横たわる人形の隣に座り、一京はなんとなしに声をかける。古くからの文化はすでに廃れている。だが、この人形も自分自身も、その文化から逃れられないのだ、必然的に。すっかり生き辛い世になってしまった。
 一京が、止む気配のない雨音に苦笑した時だった。
「ソ……ウ…デ、モ」
 雨音に混ざる声が聞こえた。
 一京はびっくりして思わず立ち上がった。小屋の中をきょろきょろと見回すが、狭い室内に他の誰かがいるわけがない。その当たり前のことに気づくと、入口に駆け寄り外を見た。人影はない。気配もない。でも、確かに聞こえた。女の、少女の細い声がした。空耳だと片付けることはできない。それほどに言葉がはっきりしていた。
 思案に暮れる一京の耳に、カタカタというか細い音が届く。小屋の奥から。まさか、とそちらへ顔を向ける。カタカタという音は、案の定人形の方から聞こえていた。
 常人ならば、悲鳴をあげて雨の中へ飛び出すはずである。不気味な人形がひとりでに動いているのだから。だが、一京はその人形の元へ飛んだ。そういった、一般的に怪奇現象と呼ばれるものにはもう慣れていた。不本意ながら、結構な場数を踏んでいるのである。
 しかし、一京は己の行動が不可解だと思った。既に触れているとはいえ、得体の知れない人形に、ひとつの警戒もなく近づいたのである。それが悪しきものであったら命の保証はない。愚かなことをしている。そう思う。それでも、止められない。
 片膝をついて人形に顔を近づける。絡繰りの口が、微かに動いていた。それを確認した途端に、妙な高揚感を覚える。わくわくしている、という表現がぴったりの感情。
「今の声はあなたのものですね」
 早口にまくし立てると、人形の口が先ほどよりも大きくゆっくりと動いた。明らかに、反応を示している。一京は、きゅ、と胸の奥が詰まるのを感じた。
 それから、一京は矢継ぎ早の質問を繰り返した。意識があるのかという問いには口を動かし、なぜここにいるのかという問いには口を閉ざし、一方的ではあるが、一京と人形は少しずつ関わりを深めていく。
「それでは、あなたは過去の記憶をあまり覚えていないと」
 カタカタと人形の口が動く。それが最後の質問であった。人形の反応を見て一京は考え込む。人形に質問を重ねる度に、一京はひとつの思いを強めていた。
 それは己の欲であった。こういった、人ならざるものと対峙すると人はあらぬ欲にかられるものである。強大な力を手にしたい、というのがよくある例だ。人ならざるものの影響を受け、またはそそのかされて、人が踏み込んではならぬ境地に立とうとする。結果、己や他者に被害が及ぶ。世間で言う“魔が差した”とは、元はこれを言うものである。
 一京は、その欲に従ってよいものかどうか、静かに思案していた。このように自制が働いているうちならば、問題ない。だが、欲に従った後にどうなるかは。
 ふいに、人形に顔を向けた。視線が注がれていることに気付いた人形は、カタンカタンとゆっくり音を鳴らす。それは、どうしたのかと問うているようにも見えた。
 人間さながらだと、くすりと笑った。なぜだか、それで決心してしまった。半ば投げやりかも知れない、だが、なるようになるだろう。一京は、人形に微笑みかけた。
「私は、あなたをここから連れ出したいと思います」
 人形が、動きを止めた。
「あなたを自邸に連れて行きたいと思います。特に何をするわけではありませんが、ただ、もう少し話がしたいんです。それと、野晒しにしておきたくないと思うんです。なぜかは説明がつきません。情が移ってしまったのかもしれませんね。だから、あなたを連れて行きたい。………もちろん、あなたが了承してくださるのなら、ですが」
 言い終えた一京は、笑みを消しまっすぐに人形を見つめた。ざあざあと降る雨音が強くなる。人形の口は、震えているような気がした。幾度か音もなく開閉をする。一京は辛抱強く待つ。それからたっぷり十を数え、人形の口がカタンカタンと動いた。
 ふっ、と一京の顔がほころぶ。ありがとう、と頭を下げてから、一京は素早く立ち上がった。
 懐から風呂敷を取り出し、それを長椅子に広げる。先ほどの質問で人形の本体が頭であることは確認済みだ。頭だけを持ち運べば良い。人形の頭を風呂敷の上にそっと置き、結ぼうとして一京は、そう言えばと手を叩いた。
「あなたの名前を決めなくてはいけませんね」
 というのも、市松人形であれ絡繰り人形であれ、こういった人形には名前がつけられているものである。人間一人ひとりに名前があるように、ひとがたを象った人形にも名前をつける風習がある。それは、体の一部に彫られていたり、人形を収納する箱に書かれていたりするのだが、この人形にはそれらがない。その上、意識を持ってはいるものの記憶の多くを失っており、当人も覚えていないのだという。名前がないと何かと不便だろうと思った一京は、再び名付けることにしたのである。
 さて、どのような名前にしようか。一京は、人形を持ち上げてじっと見つめた。顔は木目がささくれ立ち、髪は埃を被り、紅の色は剥げている。元はきっと、肌は白く滑らかで、髪は長く艶やかで、唇も頬も美しく彩られていたはずだ。哀れみが籠もる瞳を受けながら、人形はじっとしていた。
 人形の美しい姿を想像していた一京の頭に、ぽんとひとつの案が浮かんだ。頭を下ろして、ぱっと笑みを浮かべる。
「私は一京と申します。あなたに私のイチの字を授けます。それと、あなたの清らかな心身を称して、妙の字を」
 壱ノ妙。
 どうでしょうか、と尋ねると、カタタカタタと軽快に動く口。どうやら、了承したらしい。
 人形は、壱ノ妙と名付けられた。一京が改めてどうぞよろしくと微笑むと、壱ノ妙の口がカタカタと動き、
「イ……イ…、イッ…ケイ」
 声が漏れた。
 一度聞こえた声と同じだった。一京は目を丸くし、それからすぐに破顔した。
「はい。行きましょうか、壱ノ妙」
 風呂敷を丁寧に包み、壁の番傘を一振りして開く。ざあざあと鳴っていた雨はいつの間にやら小降りになっており、雲間から柔い天道の光が差している。
 傘を右手に、風呂敷を左手に、一京は山を下りる。
 重く冷たい雨の粒は、細くぬるい春雨に変わっていた。

初対面なので丁寧な一京。ほんとはもうちょっとはっちゃけてると思う。
120430

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