スプーンを下ろし口元を上品に拭った銀の髪の主は、頭を上げると妖しげな微笑みを浮かべた。
「なかなかの美味だった。部屋を用意する、今日中にここに越してこい」
「え」
 唐突にもほどがある超展開。思わず間抜けな声を漏らしてしまったアッシュだったが、それを聞き入れた者はいなかった。
 ただの気まぐれだった。例えるなら賭のような、無論実際の賭事などしていないのだが、人間と違って妖怪は遊び事が好きで、退屈なのだ。五割の好奇心と四割の気まぐれと一割の希望。アッシュがこの“面接試験”を受けたのは、なんとも不純な理由だった。なんらかの音楽経験があり、料理に心得があり、人型の人外であること。応募資格はたったのそれだけ。それも、この布令を出したのがあの“お寝坊の一等吸血鬼”ならばなおさら。とにかく暇を持て余していた者にとって、これほど面白い暇つぶしはなかった。アッシュも、そのうちの一人である。ただの暇つぶし。どうせすぐに追い返される。目に見えている結果。はずだった。はずだったのだが。
「久しぶりにオイシいご飯食べたネ~、ボクも気に入った」
「ああ、まともな奴もいたのだな」
「ヒヒッ、ユーリ、もうそろそろ襲いかかっちゃうかと思ってたヨォ」
「まさか! そんな下司な真似はせんよ」
 目の前で恐ろしげな談笑を始めた二人は、先ほどまでとはまるで雰囲気が違う。ソファーにゆったりと腰掛けた小柄なご主人は殺気満々で(今はご機嫌良好のよう)、その後ろの全体的に青い細身の包帯男は怪しげにニタニタ笑っていて(それは相変わらず)、部屋に入った瞬間、走馬灯らしきものが脳裏を駆け抜けた記憶があるのだが。
 一人放置されたアッシュは、躊躇いがちに「えぇと」と声をかけた。
「合格、ってことッスか」
 訊いておきながら、何に合格したのかはわからないが。
「ここに住んでいいってことサ。とりあえず準備しなよ、ハナシはそれから」
 ヒヒヒ、と不気味な笑い声をあげて、包帯男が皿を片付けていく。放心した頭でそれを見ながら、そういえばとアッシュは首を捻った。この城に住まう吸血鬼は一人だと聞いていたが彼は何者だろう、二人の様子を見るに上下関係は明白で、ここの主人が信頼を置いていることは確かなようだが。
 その人物にもらった答えは曖昧、グレーゾーンの返事は察するところで仮合格。それに曖昧な返事をし、アッシュは、それじゃあ仕方ないし荷物をまとめてこようかと踵を返した。「あ!」と声が上がったのはそのすぐ後。
「大事なコト忘れちゃうところだったよユーリ!」
 何事かと振り返ると、包帯でぐるぐるに巻かれた手がナイフを持っていた。食事と同時に用意したものだ。作ったのはリゾットだから必要はなかったはずなのに、わざわざ持って来いと言われた、ナイフ。なんとなく嫌な予感がしつつ、アッシュは二人を肩越しに見つめる。
「ああ、そうだったな、すっかり忘れていた。料理で頭がいっぱいだったぞ」
「ユーリってばナンデひとつのコトしか考えらんないのかなぁ?」
「お前が言うか、スマイル」
 軽口を叩き合いながら、主人の方がナイフを受け取る。嫌な予感が余計に高まりそれと連動して嫌な汗が額を伝った時、赤い目がアッシュに向けられた。
「貴様、人狼だったか?」
「そう、ッスけど……」
「それは……ふむ、まあ良いか。人狼、危ないから動くのではないぞ」
 危ない?何が。問いかけようとした台詞は、ひゅ、と風を切る音で喉に留められた。熱い、と思った首筋。咄嗟に押し当てた掌に、ベッタリとした感覚。血が出ている。
「な、何を」
 そこまで言って、ああそういえばとアッシュは己の失念に気がついた。この男は吸血鬼だったんだ。
 我に返った途端にこれまた嫌な気配がして後ずさりをするが、遅かった。肩に手をかけられて床に押し倒される。馬乗りになった吸血鬼の瞳は、殺気のひとつも見せていない。反応も遅れるわけか。いやそうでなくとも、この目にも止まらぬ早さ、獣の持つ“野生の勘”というやつでは到底太刀打ちできない。生まれ持った素質。圧倒的な力の差。
――――ブランクがあっても、一等品は一等品かあ。
 薄い唇から艶やかな舌と鋭い犬歯が覗く。噛みつかれたら痛いに違いない。生温い吐息に背筋が凍る。だが痛みはナイフの傷のみ。血は出ているから噛まなくてもいいのか。ざらつく感触に今度は鳥肌が立つ。ああでも何故だろう、アッシュの頭に浮かぶ疑問、ナイフなんていらなかったのに。
「及第点」
 肩口に顔を埋めたまま呟く籠もった声。
「う、え?」
「獣にしては、そこそこだな」
 体を離して立ち上がった吸血鬼が口端を舐めた。そのまま元のようにソファに収まる。それも何事もなかったかのように。
「あの」
「ダイジョーブ? あれ、腰抜けちゃったノカナ?」
「だい、じょぶ、ッス」
 手をついて半身を起こす。頭がくらくらして首の出血を確認する。止まってはないが酷くはないとわかる。人狼にしてみれば切り傷など大したことはない、獣の治癒力ですぐに塞がる。それでも霧がかかるのは、死ぬと思った恐怖が抜けないから。
「もー、ユーリがちゃんと説明しないからいけないんだヨォ!」
「……私の所為か?」
 腰に手を当てて怒る(といっても顔は笑っている)包帯男に、不機嫌そうな吸血鬼。そうに決まってンじゃん、ならばお前も同罪ではないのか、だってユーリがやったんじゃないか、ナイフを渡したのはスマだろう。
 なんだか微笑ましい小競り合いを始めた二人の頭から被害者の姿が消える。完全に忘れ去られそうになったところで、アッシュが声を張り上げた。それで、二人がようやく顔を向ける。
「さっきのは何だったんスか」
「さっき? どのサッキ?」
 包帯男と吸血鬼が首を傾げる。既に忘れていたらしい、絶句しかけるのを堪える。
「え、いや、ほらナイフを投げて、俺の、ち、血を舐めて」
 「血」の部分で顔を青くしながら、アッシュが遠慮がちに尋ねる。「ああそのコトね~」と手を叩く包帯男は気にせず、吸血鬼が退屈そうに口を開く。
「安心しろ、ただの味見だ。何もとって喰おうとしていたわけではあるまいよ」
「どうしてもお腹すいた時のためにね! いっつもボクばっかり痛い思いしてたからさ~」
 ココとかココとか、と首や肩を包帯の上から指す姿に、アッシュの頭がぐらりと傾く。もしかしたら、いやもしかしなくても、自分はとんでもないところに来てしまったのか。顔面蒼白のアッシュを気にも止めず、包帯男がぐいと力強く腕を引く。
「人狼、名前は」
 無理やり立たされたアッシュの目の前には、小柄な吸血鬼。身長は低く、その差は10センチほどか、それでも、威圧感というか何というか、上から目線なのが不思議なところ。従わなくてはいけない、と思わせてしまう何かがある。
「アッシュ、です」
「そうか。では、アッシュ」
 並んだ二人がアッシュに笑いかける。
「私はユーリという」
「ボクはスマイル。よろしくねぇアッシュ君」
 妖しげな笑みの中に優しい風貌が見え隠れするユーリ。 ニタニタとつり上がった口端に一瞬自然なものが混ざったスマイル。
 とんでもないところに来てしまった、と思うアッシュの中で、一割の希望が輝きはじめた。

Deuil結成話。実際にはユーリは誰かの血なんてほとんど口にしないのかも、しれない。
111127

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